著 者:山形明郷
出版社:三五館
出版日:2010年6月2日 初版発行 6月8日2刷発行
評 価:☆☆☆(説明)
出版社の三五館さまから献本いただきました。感謝。
著者は、古代北東アジア史を専門とする比較文献史家。詳しい経歴は分からないのだが、大学や研究施設には属さず、在野で研究を続けたようだ。その研究が半端ではない。中国の史記、漢書、後漢書などの「正史」24史を含む総数289冊3668巻の文献を原書、原典に当たって調査したそうだ。生涯をこれに賭けたと言っても過言ではないだろう。
本書のサブタイトルにある「虚構の楼閣」とは、「倭・倭国」=「日本」、「魏志倭人伝」=「古代日本伝」という定説のことを指している。著者の主張はこうだ。この定説を疑い検証したところ虚構であることが明らかになった。「魏志倭人伝」は「古代日本伝」ではない。故に「魏志倭人伝」に根拠を置く、九州説と畿内説で揺れる「邪馬台国」論争などナンセンスだ、というのだ。
「魏志倭人伝」は、今は小学校6年生か中学校1年生の社会科で習う。だから中学生以上1の日本人ならほぼ全員がその名前を知っている。しかしそれが、中国の正史の1つである「三国志」の「魏書」の末尾にある、わずか2千字ほどの記録であることを知る人は少ないだろう。さらにそれを原文にしろ日本語訳にしろ読んだ人はもっと少数のはずだ。
まぁそれで何の不都合もない。しかし研究者はそれでは困る。私は、本書の主張とは別に「自ら確かめろ」という著者のメッセージを感じた。研究者は定説を鵜呑みにせず、自分の目で見て自分の頭で考えるべきだ、と。研究というものは「先人が積んだブロックの上に、新しいブロックを少し積み上げる」という作業に似ている。しかし、そのブロックが土台のところでいい加減な積み方をしていたら?という感覚は必要なのだ。そしてその「自ら確かめろ」を著者自身が実践した結果が289冊3668巻の読破となったのだろう。
そして本書で披露された考察は、読む者を圧倒する。著者はまず「魏志倭人伝」と同じ巻にある「馬韓と弁韓の南は倭と接する」あるいは「界を接する」という記述に注目。続いて古代朝鮮の位置を特定し、さらにその南に接する朝鮮半島内に倭国を位置付けて結論としている。その緻密な論理の運びには隙がない。おそらくこれが真実であろうと思わせるに十分な考察だった。
ただ、「魏志倭人伝」として本書で引用、解説しているのは「倭人在帯方東南大海之中」で始まる冒頭の60文字余りだけだ。「自ら確かめろ」というメッセージを(勝手に)受け取った私は、俄か研究者となって続きを読んだところ、その後に続く言葉は「始度一海千餘里至對馬國」。「始(初)めて海を渡って千余里行くと對馬國に至る」、「對馬」は「対馬」と読んで差し支えないだろう。しかしそれでは、そこからさらに海を渡ったところにある「邪馬台国」を朝鮮半島内に位置付けるのは無理がある。
著者が「對馬國」のくだりの直前で引用を止めたのは意図的だろうか?対馬が出てきては都合が悪かったのだろうか?可能であれば、著者に疑問を投げかけてみたい。万一、今現在ここの部分が未解決だったとしても、著者にあと10年の時間があれば、反論の余地のない回答を得たかもしれない。しかし、そのどちらも叶わぬ夢となってしまった。著者は2009年4月20日に亡くなっている。合掌。
この後は本書とは関係なく、「自ら確かめろ」について書いています。お付き合いいただける方はどうぞ。
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(たくさんの感想や書評のブログ記事が集まっています。)
先日、私が少し関わったサイトで、「エール大学の卒業生に対する調査」が紹介されているのを見つけました。卒業時に「将来の明確な目的を持っていてそれを紙に書いている」と答えた人3%の20年後の総資産が、残りの97%のそれを大きく上回っていた、というものです。
また、別のところでは、コミュニケーションにおいて伝わる情報量は「視覚から55%、聴覚から38%、言葉そのものからは7%」という、いわゆる「メラビアンの法則」が紹介されていました。
また、先日読んだ本には「ノミをビンにいれてフタをすると、最初は飛び跳ねてフタにぶつかっているが、しばらくすると加減して跳ねるようになり、やがてフタを取っても飛び出さなくなる」という話が紹介されていました。
これらは、私が調べた限りはどれも誤りか、控えめに言っても真偽不明です。このように、ある情報の真偽を確かめようと思っても、以前は情報へのアクセスが制限され、一般の我々には中々難しかったと思います。でもインターネットを手にした今は、自分で情報のソースに当たったり裏付けを探したりすることが、かなりできるようになりました。
しかし私たちは、インターネットが実現したこの「自ら確かめる」手段を使えているでしょうか?逆に「いい話を聞いた」とばかりにあちらこちらのブログやサイトで、真偽不明の情報を紹介・引用して、その流布に一役買ってしまってはいないでしょうか。
先日受講した「ケータイ・ネットの問題点」をテーマにしたセミナーでは、講師から様々な事例や具体的対応法が話されました。しかし、明らかな間違いも含めて、怪しい情報がたくさん含まれていました。それなのに主催者は「皆さん、今日聞いたことを帰って広めてください」なんておっしゃってました。(主催者には問題がある情報を指摘して伝えましたが、反応はありませんでした。「変人」扱いされたのかもしれません)
「情報リテラシー」という言葉はかなり浸透してきましたが、今でも「偉い先生が言ってた」「本に書いてあった」(「テレビで言ってた」というのも含めて)、得た情報をそのまま信じてしまう傾向は強いようです。かく言う私も、夜のニュースで聞いた話を翌日に同僚に披露していることも多いです。
「情報リテラシー」は、つまりは「疑う」ことから始まります。疑われただけでも良い気はしないし、間違いだと指摘されたら気分を害することも(変人扱いすることも)あるでしょう。疑う方だって、自分で調べるのは手間もかかるし、信じてしまった方がよほど楽です。それで特に困ったことにもならない、という見方もあるでしょう。それでも私は「自ら確かめる」という姿勢は大事だと思うのです。もちろん自戒を込めて。
(◎´∀`)ノこんにちは。なかなか面白そうな本ですね。
邪馬台国の謎は、論争はつきないです。
きよさん、コメントありがとうございます。
そうですね。謎ある限り論争は続く。
ちなみに著者の前作は「邪馬台国論争終結宣言」という
ものですが、終結の日はまだ先になりそうですね。