「読育(どくいく)」に思うこと

 先日、新聞で「そろそろ「読育」はじめませんか。」という広告を見ました。有名な参考書の出版社の広告です。私も高校時代から大学受験にかけては大変お世話になりました。その広告には、その会社が考える「読育」を次のように書いてありました。

 「読むこと」がしっかりと身について、読解力が養われれば、「自分で考えるチカラ」を育てられるのです。「読むこと」が、すべての学習の基本となり、さまざまなチカラが育まれる。

 その通りだと思います。すごく良いです。どんな学習・学問もその知識の多くは「読む」ことで得ます。どんな素晴らしい書物を読んでも、読み解く力がなければ自分のものになりません。食べ物をかみ砕いて消化しなければ自分の栄養にならないように。それから「自分で考えるチカラ」を育てられる、ということもその通りだと思います。
 また、私は以前から親子で本を読む「親子読み」をオススメしているのですが(参照:新しい読書の形「親子読み」の提案)、これは、読んだ本のことを誰かに伝えるという経験が、コミュニケーションの充実だけでなく、「自分で考える」ということにとても役立つと思うからです。

 ただ、この広告には気がかりなこともありました。「感心しながら覚えたことは、強く印象に残るもの、物語を楽しみながら、小学校で学習する内容も身につけられます。」とあり、続いて小学校3年生から6年生向けの本のシリーズが紹介されています。
 どうやらこのシリーズは、国算理社と英語、保健体育の勉強が物語仕掛けになっている本のようです。これは、上に書いた「読育」の考えと微妙にズレています。「自分で考えるチカラ」を育むための読書ではなく、「○○(例えば算数)の知識を得るための読書」になってしまっています。
 つまり、これでは単なる「子ども向けのやさしい参考書」に過ぎず、「読育」とは直接の関係はありません。とは言え、この広告を非難するつもりはありません。これは参考書の会社の広告ですから。販売のために「読育」を利用するのは、マーケティング戦略としては「アリ」だと思います。

 さらに、調べてみると、文科省関連の事業にも「読育」という言葉が使われています。それから、OECDの国際学習到達度調査で「読解力」の成績が悪かったので「読育」に力を入れる、という文脈もあります。「読書教育」でも良いものを「読育」と言うことで政府が取り組みやすくなりました。ちょうど「食育」という言葉の発明が「食育基本法」などという法律に繋がったように。
 私は、子どもの間の読書は、読書そのものの楽しみが大切で、楽しいからこそ「読解力」がつくほどの量を読むことができるんだと思います。政府・官庁や学校が「読育」を推進するのは結構ですが、「○○のための読書」と早計に結果を求めたり、ましてや政府が「正しい読書」を決める、などということにならなければいいけど、と思っています。

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