9.その他

戦国武将ゆかりめぐり旅 政宗公と幸村公

書影

著 者:プロジェ・ド・ランディ
出版社:双葉社
出版日:2010年4月11日 第1刷発行
評 価:☆☆☆(説明)

 「本が好き!」プロジェクトで献本いただきました。感謝。

 本書を何と紹介すれば良いのか、帯には「武将視点の旅行案内」と書いてあるので、旅行ガイドブックなのだろう。旅行ガイドブックに求めるものを「旅行に必要な情報が過不足なく、分かりやすく掲載されていること」とすると、本書はあまり良い本ではない。観光情報としては、施設の連絡先や交通など最低限の情報が小さい字で記されているだけ、イラスト風の地図には縮尺さえない。

 であるにも関わらず、私は本書を最後まで飽きることなく読み通した。実は本書の大半は物語なのだ。真田幸村と伊達政宗という、二人の戦国武将の華麗にして力強い人生という「物語」を語っている。そしてその物語の舞台となる名跡をごくあっさりと紹介する。その場に立ってみたいと思わずにはいられない。「行ってみたいと思わせること」を旅行ガイドブックに求めるとすると、本書の評価は格段に上がる。(良い本だと思うので、なおさら字の大きさやレイアウトにもう少し工夫が欲しかった。)

 私は真田のファンで、紹介されている物語はよく知っているし、場所も幾つかは行ったことがある(飽きることなく読み通したのには、そういう理由もある)。それでも、いやだからこそ行っていない場所には無性に行ってみたくなった。さらに、伊達政宗とカップリングした著者の慧眼に脱帽する。おそらくは本書の肝だろうと思うのであえて説明しないが、歴史ブーム、歴女ブームの火付け役となったゲーム「戦国BASARA」の人気武将トップ2を揃えただけではないことは確か。このカップリングにも「物語」がある。

 今日5月7日は真田幸村の命日。幸村は1615年の今日、大坂夏の陣で徳川家康の本陣に迫る奮戦を見せたが、志叶わず討ち死にしている。その日にこの本を読んだことに何かの縁を感じる。

 この後は、書評ではなく、真田幸村について語っています。すごく長いですがお付き合いいただける方はどうぞ

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(さらに…)

若き友人たちへ -筑紫哲也ラスト・メッセージ

書影

著 者:筑紫哲也
出版社:集英社
出版日:2009年10月21日 第1刷 12月17日 第5刷
評 価:☆☆☆(説明)

 著者は2008年11月に亡くなっている。本書は、集英社新書編集部が著者の死後に、集英社のPR誌に書いた「若き友人への手紙」という連載と、早稲田大学と立命館大学での講演を基に構成したものだ。
 PR誌への連載は、著者がすでに病に冒された後「遺しておきたい言葉がある」と言って、何度か掲載したものを新書の形でまとめる、ということで始めたものだそうだ。しかし、病の進行のために連載は2回しか続かなかった。だから本書は言わば著者の絶筆、まさに「ラスト・メッセージ」なのだ。

 「若き友人への手紙」という連載と、大学での講演が基になっているのだから当然だが、内容は大学生ぐらいの若い世代へのメッセージだ。全編に感じられるのは、若者へのゆるぎない「信頼感」と「厳しさ」。「今の若い者は..」という指摘のほとんどは的外れかしばしば逆である、と言う一方、大勢に流され真剣に考えない姿勢には厳しい。
 例えば憲法について。「第14条と第24条を知っているかと聞くと、ほとんど手が挙がらない。(中略)それでこの憲法は古いだの時代遅れだだのとよく言うよ。(中略)ファッションじゃないんですよ、憲法は」と、投げつけるかのような厳しい言葉だ。

 著者が多くの批判を受けていることはもちろん知っている。以前に「朝日ジャーナル(週刊朝日緊急増刊)」という記事を載せた時には、記事中に著者の名前はないにも関わらず、厳しい意見をたくさんいただいた。
 私自身も、晩年のNEWS23を見て「おやっ」と思うことはあった。しかし、著者の「自分自身で考え、議論をして決める」という信条は正しいと思う。ここ2回の衆院選は、どちらも大波に呑まれたような選挙だったが、その時々の趨勢で世論が極端に振れることは心配だ。
 
 最後に、本書の最終章にある興味深い指摘を紹介する。「国家がダメになっていくのはどういう時かといえば、それは優先順位を間違えた時です。」というものだ。そして例としてバブル崩壊後の「失われた10年」の入り口のころ、宮沢喜一内閣のことを挙げる。
 この時「優先課題を経済改革ではなく政治改革」にしたという。その後、小選挙区制導入をめぐるこの政治改革の余波で政界再編が起き、新党が多数設立された。今の政治の状況と合わせ鏡のようではないか?あの時はそれから10年間の低迷をこの国は続ける。著者の指摘は興味深いだけでなく、不吉でさえある。

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書評家<狐>の読書遺産

書影

著 者:山村修
出版社:文藝春秋
出版日:2007年1月20日 第1刷発行
評 価:☆☆☆☆(説明)

 著者は1981年に「日刊ゲンダイ」に書評コラムを書き始めた。本書は、2003年から亡くなる直前の2006年7月までに「文學界」に掲載された書評を収録したもの。タイトルの通り著者の「遺産」だ。「狐」は著者の書評を書く際のペンネーム。(死の直前まで実名を公表していなかった)
 サブタイトルに「おとなの読書感想文・書評」とあるように、このブログの記事も書評を名乗っている。25年のキャリアのある名書評家の書評集を、このようにお気楽な「ブログ書評」で評することになってしまって、おこがましい限りである。申し訳ない。

 全部で34編の書評が収録されている。取り上げられている本の数は80作品以上。本の数が書評の数を大きく上回っているのは、まず1つの書評で、あるテーマの下に2つの本を紹介する形式が貫かれているため。例えば冒頭の一編「学究のパリ、文士のパリ」では、「ガリマールの家/井上究一郎著」と、「林芙美子紀行集/立松和平編」の2作品。2つの本はパリという街とあるフランス人作家によって、時代を越えてつながっている、という趣向だ。
 また、紹介される2つの本以外にも、同じ著者の他の作品や、ちょっとした関連の指摘や引用などによって、たくさんの本の名があげられる。上に80作品以上と書いたが、正確にはいくつなのか正直言って分からないのだ。90とか100とかあるのではないかと思っている。

 著者の読書量、いや知識量に圧倒される。2つの本を1つのテーマの下に取り上げるだけでも、膨大な既読書の中からのピックアップでなければ、34回もほぼ毎月のペースでは続かない。しかも、中には「嵐が丘/E・ブロンテ著」のように、複数の訳者による訳文の比較評価なんてものがいくつもある。
 さらに言えば、多くの書評に著者の生没年が紹介されているが、それは作品が書かれた時代背景、それも実に詳細な形で言及するためだ。例えば「嵐が丘」刊行の1847年はマルクスの「共産党宣言」の前年、「ヨーロッパ中に共産主義という名の亡霊が出没していた」と紹介されている。

 しかし書評というのは、読者を圧倒するためのものではない。と、強がってみたものの、紹介されている本の多くがとても魅力的に見える。私の守備範囲から外れた古い作品が多いのだけれど、著者の書評がガイドとなってスルリと入っていけそうな気がする。そうだ、良い書評とは良きガイドなのだ。良いことを学んだ。
 「申し訳ない」と言いながらも評価する気でいたのだが、結果的には私が学んだ形になってしまった。実は本書は、私が楽しく過ごしている本好きのためのSNS「本カフェ」の、「みんなで書評力UPを目指そう!」というコミュニティ(今はちょっと停滞気味だが)で推薦されたテキスト。教科書なのだから「評価する」より「学ぶ」方が自然だとも言える。
 私のように「書評をうまく書きたい」とか、「安くても原稿料がもらえる仕事がしたい」とか思っている方には一読の価値ありだ。

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眠れなくなる宇宙のはなし

書影

著 者:佐藤勝彦
出版社:宝島社
出版日:2008年7月7日 第1刷 2009年8月10日 第5刷 
評 価:☆☆☆(説明)

 今年は条件が良いらしく10月にオリオン座、11月にしし座、12月にふたご座と、何度も流星群が観測できる機会があり、星空を見上げることが多かった(残念なことに流れ星には出会えなかったけれど)。そうでなくても冬は空気が澄んでいて、オリオン座という分かりやすい星座が長く南の空にあるので、何気なく星空を見上げる回数も多くなる。

 その星空を見上げて思索を巡らせた、神話から古代・中世の哲学者や天文学者、そして現代の物理学者らの様々な人々のことを、ソフトな口調で丁寧に紹介した本が本書だ。取り上げられるテーマは、古代インドの巨大なヘビとカメの上に乗った宇宙観から、プラトン・アリストテレスを経て、相対性理論や最新の「十次元空間に浮かぶ膜宇宙」論まで、多彩で幅広い。
 著者は東京大学の教授で宇宙物理学者、本書後半にある最新の宇宙論の研究者で言わば最先端を走る方だ。前半の神話や哲学者らの話は専門外かと思うが、想像するに著者の中では、神話も宇宙物理学も違和感も断絶も無く、一枚の織物のようにつながっているようだ。読んでいる方の頭にもスッと入ってくる。

 「世界を知りたいという思いは、自分が何者なのかを知りたいという思いと同じ」という言葉が本書にある。「夜」が無ければ宇宙のことは分からなかった、おそらく考えられもしなかったに違いない。また日中は忙しくて、思索の時間には向いていない。だから、宇宙に思いを馳せるのも自分を見つめるもの夜に限る。
 そこで、ということなのだろう。本書は眠る前の一時の語りの形で、第一夜から第七夜までの七つの章で成っている。各章は「それでは、今晩はこの辺りで。おやすみなさい。」で終わる。その趣向に乗って、眠る前の20分を本書に充ててみてはいかがだろう?

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おとぎ話の忘れ物

書影

著 者:小川洋子/文 樋上公実子/絵 
出版社:ホーム社
出版日:2006年4月30日 第1刷発行
評 価:☆☆☆☆(説明)

 「博士の愛した数式」でしみじみとした情感を描いた小川洋子さんの作品。世界各地の街の駅などにある「忘れ物保管室」、そこには傘や帽子などと一緒に、忘れられた「おとぎ話」も保管されていた。本書は、そんな物語を集めた「忘れ物図書室」の話。

 「忘れ物図書室」は、スワンキャンディーというキャンディ屋の奥にある。キャンディーを舐めながら、世界各地から集めたおとぎ話を読む。なかなか粋な趣向で優雅な気分になれそうだ。

 ところが...。全部で4話ある物語を読んでいくと、そわそわし始めてしまう。優雅にキャンディー、という気分ではなく、「私はこの話を読んでいいのだろうか?」と思ってしまう。

 ここに描かれているのは、思いのほか粗い肌触りの物語だった。「赤ずきん」「アリス」「人魚姫」などをモチーフにした「こうなって欲しくない」物語。でも、心の深淵にある「こうなるんじゃないか」という暗い期待が見透かされたようで、目を離せない。何ともやっかいな本に出会ってしまった。

 この本は、イラストレーターの樋上公実子さんという方が描いた絵がまずあり、それに小川洋子さんが物語を付けたもの。20点あまりある絵はどれも凛とした女性が描れている。美しくたおやかな姿ながら何者にも媚びず侵されず、真正面から見る視線にはしなやかな強さを感じる。この絵の中に小川さんはあの物語を見つけたわけだ。

 実は、樋上さんの絵に文を付けた作品はこれが初めてではない「ヴァニラの記憶 」という本がそれで、こちらは松本侑子さんが詩を付けている。こちらも女性の真っ直ぐすぎるぐらいな視線と本音、そして葛藤が感じられる詩で、男の私はただドキドキしてしまってじっくり読めないぐらいだった(「おじさん」と呼ばれても抵抗がない歳なのに)。この詩も絵から生まれた詩なのだ。物語や詩を内包する。絵はそんなこともできるのだ。

Amazonには新刊の在庫がないようです。オンライン書店bk1にはありました。(2009.11.4現在)

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本好きのためのSNS「本カフェ」

 今日は私が参加させていただいているSNSを紹介します。本好きの人が集まる喫茶店のような「本カフェ」というSNSです。私のブログ友達でブログ「HEART GRAFFITI」のジーナフウガさんのご夫婦が運営されています。「本のことをもっと語り合いたい」と思う方は私と一緒に参加してみませんか?

 日ごろ多くの方からコメントやトラックバックをいただいて、感謝しています。コメント欄を通しての皆さんとの交流はとても楽しく、ブログをやって良かったなぁ、と感じています。
 ただコメント欄では、その本の話題に限定されてしまうのが悩みでした。私がこのブログには書評や感想だけで、日記的なものは載せないので仕方ないのですが、もっと本のことで色々なお話ができるといいなぁと常々思っていました。
 例えば、昔読んだ本のこと、いつか読みたいと思っている本のこと、本屋で見かけた本のことも話したい。そして読んだ本についても、あそこは感動したとか、あの部分はどういうことなのかとか、誰かと話したいと思うことはあるのですが、ネタバレには慎重なのでこのブログでは曖昧にしていました。

 そこに、そんな希望を満たしてくれそうなSNSを教えてもらったので早速登録したわけです。同じようなことを思っていた方も多いと思います。参加してみて私や他の皆さんとカフェでマッタリとつるんでみませんか?

 本カフェ:http://heartgraffiti.sns.fc2.com/
 ↑ご希望の方は「新規登録」をクリックして会員登録を行なって下さい。

 ジーナフウガさんからの「本カフェ」についてのお知らせ
 

脳の中の身体地図

書影

著 者:サンドラ・ブレイクスリー、マシュー・ブレイクスリー 訳:小松淳子
出版社:インターシフト
出版日:2009年4月20日 第1刷発行
評 価:☆☆☆(説明)

 「本が好き!」プロジェクトで献本いただきました。感謝。

 意識のある患者の頭蓋を丸く切り取って、脳に直接電極をあてる。「どんな感じがしますか?」と聞かれて患者は「左手がチクチクします」と応える。こんな研究をやろうと思いつく人がいて、それに協力する人がいたおかげで、身体のどの部分の知覚を脳のどの部分で感じとっているかを示すマップができた。ホムンクルスと呼ばれる、脳の絵の周りに顔や手足が描かれたちょっとグロテスクな感じのするイラストだが、ご覧になった方もいるだろう。

 本書は、上の研究の後に連綿と続く脳の研究(今は、もっとスマートで安全な研究方法が開発されている)の成果を、分かりやすくと伝えようとしたものだ。特に、脳の可塑性についての紹介は明快で面白かった。
 「可塑性」というのは、粘土のように形を自由に変形させることができることだ。例えばスポーツ選手は、ある状況に対する身体の一連の反応を脳に記録できる。それを呼び出すことで瞬時の反応ができる。イチローが150~160キロの直球を軽く打ち返すように。
 スポーツ選手の例はまぁ分かる。ではこんな実験はどうだろう。真ん中に鏡を置いたボックスに右手を入れる。鏡に映った右手が左手のように錯覚して見える。事故で片腕をなくしていたとしても、この同様「ミラーボックス」の実験で、ないはずの腕の感覚領域が脳に復活するのだ。その腕が「ある」ように感じることができる。

 このような特別な例ばかりではない。棒を持ってモノをつつけばそのモノの感触が分かるし、車を運転していて地面の状態を感じることができる。しかし考えてみれば不思議だ。私たちが知覚しているのは、棒や車から感じる僅かな反発や振動でしかない。それが「感触」として認知できるのは、実は脳は棒や車体の範囲にまで身体感覚を延長してマッピングできているのだそうだ。恐るべし、私の脳。
 そうそう、この身体感覚の取り込みに最高度に成功しているゲームはWiiだそうだ。確かに「そこにはないボール」を「そこにはないラケット」で打ち返すことができる。脳こそが最大のバーチャルリアリティを実現していることは、家のお茶の間でも実感できるのだ。

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こんな日本でよかったね -構造主義的日本論-

書影

著 者:内田樹
出版社:バジリコ
出版日:2008年7月26日初版第1刷 8月17日第4刷
評 価:☆☆☆(説明)

 著者は、新刊再発とりまぜて毎年10冊も本を出し、新聞や雑誌などから事あるごとにコメントを求められるそうだ。本書を読んで、その人気ぶりにも得心がいった。ちょっと変わった視点を提供してくれるし、アカデミックな話題も親しみやすく語れる。本書ではそんな著者が、「格差」「少子化」「学力低下」「愛国」などの興味深いテーマを語るのだ。面白くないはずがない。
 (知ってる人にしかさっぱり分からないと思うけれど)学生時代に「構造と力」や「逃走論」という本を持って(読んでなくてもOK)喜んでいた私にとっては、構造主義とかレビィ・ストロースとか言われるだけで、「あぁ、この人は頭いイイんだぁ」と思ってしまう。

 しかし、本書に種々書かれている内容そのものに目を転じると、3割はなるほどそうかと思うが、6割は同意できない、残りの1割は何が言いたいのか分からない。本書は著者のブログの記事を編集者がピックアップして再編集したものらしい。往々にしてブログの記事は、その時々に思ったことを書くので、首尾一貫したものにはなりにくいのはもちろん、1本1本の記事もそんなに気を配っては書かないのかもしれない。
 だから、本書に対して「ココはおかしい」なんて読み方は本当は野暮なのだろう。「へぇ~そうなんだ。この人はこんな風に考えるんだぁ」と、読み流せば良いのかもしれない。しかしたくさん気になることがあるので、野暮を承知で一つだけ指摘する。
 それは論理展開に潜むミスリードだ。あるテーマを何段階にも展開していくのだが、どうも途中で最初のテーマから微妙にズレるようなのだ。例として「格差社会」についての論理展開を紹介する。

 (1)「格差」とはメディアの論によると「金」のことである。→(2)「金」がないせいでネットカフェで暮らすなどの生活様態を余儀なくされている。→(3)これから導かれる結論は「もっと金を」だ。
 ところで、(4)「格差社会」とは人間の序列化に金以外のものさしがなくなった社会である。(5)「もっと金を」というソリューションは「金の全能性」をさらにかさ上げする。→(6)「金を稼ぐ能力」の差が、乗り越えがたいギャップとしてに顕在化する。となっている。

 そして、格差社会について色々言うのは悪循環を招きはしないのか?という具合に続く。「ほぉ、なるほど」と思わないでもない。一つ一つの→のつながりも間違えてはいない。でも、格差問題解消の結論は「もっと金を」とも言えるが、より丁寧に言うと「衣食住に最低限必要な金(そのための職)を」だろう。
 「衣食住に最低限必要な金を」なら、「金の全能性」をかさ上げすることにはならないはずだ。「もっと金を」という言葉の選択が、論理展開を微妙にズラし、結論を歪めてはいないか?著者の作為的な選択かどうかは分からないが、他のテーマでもこういう論理展開が幾つも見られる。もし、作為的だとすれば、たちの悪い言葉遊びだと思うが、どうだろう?

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ダメなものは、タメになる テレビやゲームは頭を良くしている

書影

著 者:スティーブン・ジョンソン 訳:山形浩生 守岡桜
出版社:翔泳社
出版日:2006年10月3日初版第1刷
評 価:☆☆☆(説明)

 本書が、いわゆる「ゲーム脳」をはじめとする、ゲームやテレビを見るとバカになるだけでなく、脳に悪影響を及ぼして人格破壊さえ引き起こす、という言説へのアンチテーゼになっていることは間違いない。「テレビゲームは頭を良くしている」という副題は、そういった言説を「信じている」、もしくは「そうかもしれない」と思っている、良識のある人たちにとって、挑戦的でさえある。挑戦的すぎて、読もうともしないのではないかと懸念される。
 だからこそ敢えてゲームやテレビを排斥しようとする「良識のある人」にも読んでもらいたい。そういった人には、バランスとして「ゲーム脳」と相反する書籍を読む必要があると思うからだ。

 内容について言えば、評価と落胆が相半ばする。挑戦的なサブタイトルに反して、非常に冷静な分析が続く。しかし、それは別の言い方をすれば、インパクトがあるようなことは書かれていない、とも言える。それ故、評価は☆3つとした。

 でも、著者がこの本を出した意図は、サブタイトルが表すような、テレビやゲームを全面的に擁護し、それが頭を良くすることを知らしめることではない。「メディアの暴力表現は現実の暴力につながるのか否か」「テレビゲームがキレやすい子どもを作っているのか否か」という議論をヤメにして、あるいは、こういう議論だけではなくて、メディアやテレビゲームの悪影響も効用も同じように研究して、読書や野外活動やその他の体験とのバランスや「適切な摂取量」を考察するための議論をしようよ、ということなのである。
 この作者の隠れた意図に興味がおありでしたら、一読をオススメします。

ここから先は、詳しい内容に触れています。
興味のある方は、どうぞ

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(さらに…)

心でっかちな日本人

書影

著 者:山岸俊男
出版社:日本経済新聞社
出版日:2002年2月25日1版1刷
評 価:☆☆☆(説明)

 「心でっかち」という言葉は著者の造語。「頭でっかち」が、知識(頭)ばかりで実際の経験や行動とのバランスがとれていないことを言うように、「心でっかち」は、「心」に重きを置きすぎるものの考え方を言う。

 例えば、学校でのいじめの問題について。「いじめが起きるのは、行き過ぎた個人主義で、子どもたちから他人を思いやる「心」が失われているからだ」という言説。だから「心」の教育が大事、と続いていく。一見して受け入れられやすい話だ。だからこそ危険でもある。
 実際に子供たちに接していれば違和感を感じるはずだ。そうでなくても少しの想像力を働かせれば気が付くのではないかと思う。いじめが起きているクラスの1人1人の子どもを見れば、友達を死に追いやるような子どもが何人もいるはずはない。
 もちろん、全くいないとは言わない。でも、子どもたちに他人を思いやる「心」がない、と言うのは間違いか少なくとも過大な表現であることが分かる。大多数の子どもに「心」の欠如の問題がない以上、この問題を、「心」の教育という漠としたもので解決しようとするのはムリなんじゃないかと思う。
 しかし、先の言説があまりにスムーズに受け入れやすいために、それで良しとして、それ以上の考えも対策もなされない。だから危険なのだ。いじめだけでなく、犯罪や格差の問題など、社会の不都合なことをすべて「心」の問題にしてしまう傾向が感じられるが、それは危険なのだ。

 いじめについての著者の見解はこうだ。クラスの1人が誰か1人をいじめたとする。その時の他の子どもたちの反応が問題を左右する。ほんの少しのバランスが崩れることで、一気に凄惨ないじめに発展することも、解決することもある。
 たとえ自分1人でもそのいじめに立ち向かう子、誰かが一緒なら立ち向かう子、何人以上かが一緒なら立ち向かう子、他の全員が立ち向かうなら従う子、いろいろな子どもがクラスには混在している。逆の言い方もできる。自分もいじめに加わってしまう子、何人かがいじめ始めればそれに加担してしまう子、というように。
 さて、ここで思考実験。自分1人でも立ち向かう子が1人、誰かが一緒なら立ち向かう子が1人、他に3人いれば立ち向かう子が5人…..とすると、このクラスでは2人しか立ち向かうことにならない。しかし、もし「誰かが一緒なら立ち向かう子」がもう1人だけいれば?そう、「他に3人いれば…」の5人も加わって8人、「8人味方がいれば…」という子が何人かいれば、さらにその数は増える。初期のたった1人の行動の違いで結果は大きく左右される。

 このように考えると、いじめは子どもたちの「心」の問題というよりは、社会心理学的現象と捉えられる。そうすれば、解決の糸口も見える。
 学校では、子どもたちのそれぞれが、少しでも仲間が少なくても(3人いれば..と思っていた子は誰か1人でも一緒なら、誰かと一緒ならと思っていた子は自分1人でも、といううように)立ち向かうようにすればいいのだ。
 子どもたちは先生を見ているから、初期の先生のリーダーシップで少なからず反応が変わるはず。いじめに立ち向かおうとする子どもの後ろ盾に、先生がほんの少しでもなれば、事態は変わるかもしれない。これが解決の糸口だと思う。

(補足)
 私は、子どもたちの心に問題がないとは言いません。だから、他人を思いやる心を育ませる、という教育に異議はありません。念のため付け加えさせていただきます。しかし、制度やカリキュラムをいじることで、これができるとは思いません。

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