どこにでもある場所とどこにもいないわたし

著 者:村上龍
出版社:文藝春秋
出版日:2003年4月25日 第1刷発行
評 価:☆☆☆(説明)

 「コンビニ」「居酒屋」「公園」「カラオケルーム」「披露宴会場」「クリスマス」「駅前」「空港」の8編が収められた短篇集。タイトルがそのまま舞台となっている。本のタイトルのとおり「どこにでもある場所」だ。「クリスマス」は場所か?とか「空港」はどこにでもあると言えるか?といった意見はあるだろうが、そう特別な人だけのものではないことは確かだろう。
 そして主人公たちはその場所にはいない。いや確かにそこにはいるのだけれど、心が違う場所をさまよっていて、自分がそこにいるという実感を失ってしまっていることさえある。自分の居場所が定まらない不安定感を強く感じている「どこにもいないわたし」だ。

 例えば冒頭の一編「コンビニ」では、主人公は音響スタジオで働く22才の男性。コンビニで他の客や店員、棚の商品を細かく観察していながら、心は、幼稚園の頃の祖母の病室、中学生の頃の教室、父や兄と過ごした住宅街へと、フワフワと別の場所に流れ出してしまう。
 この構成は他の短編にも通じていて、居酒屋で同僚や彼氏と飲みながら昔会った男のことを思い出していたり、四歳の息子を連れて通う公園で他の母親の噂話のことを考えたりしている。現実の描写と頭の中の思考がまぜこぜになった文章が「どこにもいないわたし」という不安定感をかもし出している。

 著者あとがきによると「希望の国のエクソダス」で「この国には何でもある。~だが、希望だけがない」と中学生に言わせた後、「希望」について考えることが多くなり、この短編集では登場人物固有の希望を書き込みたかったそうだ。
 「コンビニ」の主人公は、アメリカの映画技術専門学校への留学を決めていて、それがいまの「希望」というか拠り所になっている。ただ「希望」と称するものが「ここではないどこか」へ行く、という以上の意味が見えない。著者の意図かどうか分からないが、「希望」を書き込むことで却って主人公たちを覆う閉塞感が際立った形になっている。

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 ケチを付けるのは本意ではないのだけれど、気になることがあって気持ちがノリきれない本だったことも確か。その気になることを書かせてもらう。

 「不安定感をかもし出している」とした時制がまぜこぜの文章も、行き過ぎると混乱して読みづらい。「カラオケルーム」では、主人公→主人公の同僚→その友だちと一人称が次々に移っていく。
 「友達」が言っていたと「同僚」が言っていたことを「主人公」が思い出しているのだけれど、会話文でもなく行間が空くでもなく、それぞれがみんな「わたし」とか「おれ」と一人称で書かれている。

 そしてこのように、読んでいて一度つっかえてしまうと、普段は気にならない細かいことも障りを感じてしまう。「披露宴会場」で、30坪のレストランで120人の参加者、とある。大まかに言って30坪は60畳、単純に割って1人半畳。それも着席式のようだから、不可能ではないがかなり密集したパーティになってしまう。

 うん、ちょっと文章の精査が足りないかもしれない。大作家に失礼だけれども、時間は誰にも平等にあって、大体の人には充分ではないから、そういうことがあってもおかしくない。

3つのコメントが “どこにでもある場所とどこにもいないわたし”にありました

  1. ksk0204

    初コメです。
    editaから飛んできました。
    時間がなくて(言い訳ですが。。。)本を読むことがめっきりなくなりましたが
    久しぶりに読みたくなりました。

    応援ぽちです。

  2. YO-SHI

    ksk0204さん、コメントありがとうございます。

    時間もそうですが、気持ちにも余裕がないと、本を手に取る気に
    なれませんよね。
    でも逆に、ゆったりした本を読むと、気持ちに余裕が出てくる、
    ということもありそうです。

    応援ありがとうございました。
     

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