「当事者」の時代

著 者:佐々木俊尚
出版社:光文社
出版日:2012年3月20日 初版第1刷
評 価:☆☆(説明)

 「いつから日本人の言論は、当事者性を失い、弱者や被害者の気持ちを勝手に代弁する<マイノリティ憑依>に陥ってしまったのか・・・」本書の帯のこのコピーに魅かれて、465ページと新書にしては厚いこの本を手に取った。私も同じように思うことがあるからだ。

 タレントや政治家が配慮に欠ける発言や行動して「○○の気持ちを考えれば、とてもそんなことはできないはずだ。けしからん」といってバッシングが起きる、ということが度々ある。そんな時に「どうして当事者でもない人が全権委任されたように責め立てるのか?」と思う。「○○さん自身の気持ちを確かめた方がいいんじゃないか」と。

 そして本書について。帯にはさらに「渾身の書下ろし」とあり、その言葉が発する通りの熱を感じた。しかしそれにも関わらず、期待をはぐらかされた気持ちがした。私は、現在のマスメディアやネットの言説の、著者がいう「マイノリティ憑依」の状況についての、分析や批評やあるべき姿を期待していたが、そういった論点は終章にわずかに顔を出すだけだった。

 それでは465ページも何が書いてあったのか?それは「いつごろからこうなったのか」を示すのに費やされている。 (この記事の冒頭を見返して欲しい。確かに「いつから...」と書いてある。帯に偽りはないわけだ。)

 さらに言えば、著者の新聞記者時代の経験や、戦後の左翼運動という、本題からはずいぶんと遠い所から始まる。それはそれで読み応えがあったのだけれど、もどかしさは否めない。サッカーの試合を見ようとしたら、選手が朝起きたところから細かく見せられたような感じだ。

 そして「マイノリティ憑依」の端緒がいつごろかの考察を経て、ようやく現在に至ったと思ったのが「終章」。先ほどのサッカーの例えで言うと、キックオフの笛を聞いたと思ったら終わってしまった、という気持ちだ。

 この後は書評ではなく、この本を読んで思ったことを書いています。お付き合いいただける方はどうぞ

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 このレビューに関連して2つ。1つ目は念のための説明。「どうして当事者でもない人が...」については、「当事者でなくても、問題のある言動は指摘し批判すべきだ」という批判があるでしょう。いわゆる弱者の声は小さいことが多いので、その代わりに声を上げることも、場合によっては必要でしょう。

 こうしたご意見はもっともなことだと思います。ですが、「誰かのために声を上げる、または怒る行為」には、注意が必要だとも思うのです。当事者ではない人が是非を断定するのですから、本書で「神の視点」と表現されている、上から見下ろした感覚になりがちです。時には、一方的に他人を叩く「全能感」さえ感じてしまう。

 その気持ちよさや高揚感は抗いがたく、よほど注意していないと、それに取り込まれてしまいます。マスメディアやネットでのバッシングには、取り込まれてしまった意見が多いように思います。私が「どうして当事者でもない人が...」と感じるのは、そんな意見に対してです。決して「当事者でないのなら、口を閉じていろ」と言いたいのではありません。

 2つ目は本書での著者の結びについて。本文では敢えて書いていませんが、ジャーナリストとしての著者は「当事者としての立ち位置を取り戻すために闘う」と結んでいます。本のタイトルに通じる部分ですが、これは私がジャーナリズムに感じることと、共鳴します。ただしあまりきれいな響きではありません。

 私は以前、新聞社のモニターをやったことがあります。それが終わった時の「新聞社の紙面モニターが終わりました」という記事に、「新聞は伝聞の巨大な集積」ということを書きました。基本的に新聞の記事は、記者が誰かから聞いてきたことだからです。

 つまり、ジャーナリズムは当事者の立ち位置に立っていない、という認識は、著者も私も同じです。そして新聞モニター中に「伝聞の巨大な集積」に気付いた時には、不信感や無力感を感じました。だから「当事者としての立ち位置を取り戻す」という著者の宣言には、「伝聞」から抜け出すという意味では共鳴します。

 しかし「そんなことが可能か?」「それを本当に望むのか?」という2つの問いに、私は否定的です。ジャーナリストは(特別な場合を除き)当事者になり得ないし、ジャーナリズムには当事者の視点よりも、(例えそれが観念論だとしても)公正公平な視点を期待します。だから、共鳴はするけれどきれいには響かないのです。

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