5.ノンフィクション

生命40億年全史

書影

著 者:リチャード・フォーティ 訳:渡辺政隆
出版社:草思社
出版日:2003年3月10日第1刷 2003年3月26日第3刷
評 価:☆☆☆(説明)

 原題は「LIFE -An Unautorized Biography-」、訳せば「生命 その非公認の伝記」とでもなるのか(もうちょっとマシな訳があればいいのだけれど)。本書は、生命を主人公に見立てて、その生い立ちからこれまで(正確には人類の誕生まで)の40億年を、一つの物語として書いた野心的な本だ。
 ちなみに、日本では伝記というと過去の偉人の生涯を書いた、ちょっと教育色の強いものを思い浮かべるが、欧米では現役の著名人の生い立ちを、本人の了解を得ずに出版することも珍しくないらしく、それが「Unautorized Biography」。旬の話題で言うと「Barack H. Obama: The Unauthorized Biography」なんてのがある。

 読み応えのある本だった。まぁ490ページが長いか否かはそれぞれの意見があるだろうが、40億年分の歴史を思い入れを交えながら丁寧に記述した物語は、ズシリとした手応えがあった。著者は、大英自然史博物館の主席研究員、英国古生物学会の元会長で三葉虫をこよなく愛している。その著者が持てる知識と情熱を注いだ物語なのだから、読む方もしっかり構えないと受け取れない。
 本書によると、海の中で無生物を生物に転ずる生命の火がたった1度だけ火花を散らした、それが遅くとも38億年前、藻類の微細な化石が残されたのは10億年前、脊椎動物の祖先とみられる動物の化石は5億数千年前だ。その後、生命は上陸を果たし、1億9千万年前に恐竜が出現、6500万年前に絶滅…、我々ホモ・サピエンスの登場はわずか10万年前、とこのあたりは良く知られていることかもしれない。
 こういったことを概説するだけであれば、歴史の教科書や参考書に同様のものがあるかもしれない。想像するに退屈な代物だろう。本書は、中立で公正な記述を心がけながらも、著者やその他の研究者の思いや、古生物界の様子などを交えた独特の語り口が、退屈さを払しょくしている。著者が言及する範囲は広く、指輪物語やナルニア国物語、ガリヴァー旅行記からディズニー映画まである。もちろん「ジュラシックパーク」も。(登場する恐竜の多くが「ジュラ紀」ではなくその後の「白亜紀」の恐竜なんだそうだ)

 本書を読んで痛切に思うのは、生命の物語は奇跡の連続であったことだ。現生人類から遡れば進化の道は一本の道なのだけれど、その道は幾つの角を曲がるのか?「進化論」が論じる突然変異と自然選択によって、現在の多様な生物種に至るのには、幾たびの変異と選択が必要なのか?その確率を表すことは誰にもできないのだろうが、「奇跡」と言わずにはいられないほど低い確率であることは確かだと思う。
 こうして考えると「神」を持ち出さずとも、進化には何らかの目的性があると考えたくなる。より有利な形質の獲得を目指す原動力のようなものがあるのではないかと。そう考えた方がうまく説明できる。しかし著者は、そうした考え方を「目的論という名の化け物」と言って、その誘惑と戦いながら物語を綴っている。時に誘惑に負けてしまいながら。

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アフリカ 苦悩する大陸

書影

著 者:ロバート・ゲスト 訳:伊藤真
出版社:東洋経済新報社
出版日:2008年5月15日第1刷発行
評 価:☆☆☆(説明)

 著者は、英国の経済誌「エコノミスト」の元アフリカ担当編集長。アフリカに赴任する前は、英国紙「デイリー・テレグラフ」の日本特派員。「貧しい国々はどうすれば豊かになれるのか」が、著者が最も関心を寄せている問題のひとつ。その答えを求めるために、明治維新から軍国主義を経て奇跡的な経済成長を遂げた日本に、大学で日本語を学んでやって来たのだ。
 そして、著者の関心は今まさに貧困に苦悩する大陸「アフリカ」に向かったわけだ。貧困から抜け出せないでいる国々をじかに見ることで、逆にどうすれば豊かになれるのかの答えを探そうというわけだ。本書に記されているアフリカでの苦労の数々を思えば、ジャーナリスト魂の発露とは言え、よくこんな道を選択したと思う。命の危険に遭遇したことも1度や2度ではない。(自国民の保護を断固主張する)欧米諸国の国民でなければ殺されていたかもしれない。

 前半は気が滅入る内容だ。何故アフリカは貧困にあえいでいるのか、著者が見たその理由が次々と挙げられる。独裁者による破たんした国家経営と国民からの搾取、民族・部族間の憎悪、官僚・役人・警察の腐敗、エイズを始めとする疫病に対する無知・無理解、など。
 どうしてこんなことになってしまったのかは分からない。しかし、今現在の問題の核心は分かった気がする。それは国家を経営する能力を持つリーダーの不在だ。自分や親族・出身部族のためでなく国家のために働くリーダー、外国からの援助を本来の目的に使うリーダー、腐敗した官僚たちに規律を守らせるリーダーだ。
 簡単なことではない。「自分たちを優遇しない」ということは、親族・出身部族の憎悪の理由になり得るのだから。また、アフリカの有能な人材はどんどん流出してしまっている。医者の意見より政治家の判断が、エイズ治療の可否を決める国にいたいと思う知識層はそう多くないだろう。

 後半になって、少しだけ展望が見えてくる。著者の取材も以前に比べれば格段に安全になったし、情報通信技術が社会の風通しを少し良くした。南アフリカは未だに問題は多いながら、アフリカ諸国の民主化と脱貧困の先頭ランナーとして走り始めている。
 そして、著者がもっとも信頼をよせるのは、アフリカに住む庶民が豊かになりたい努力すればなれる、と思っている事実だ。それは、ビールの配送ルートの取材のために、500kmのデコボコ道を、トラックに4日間同乗した著者ならではの視点だ。そんな中で南アフリカの青年が言った言葉「南アフリカ人も一生懸命働けば、日本のように豊かになれる」これを聞いて誇らしいよりも面映ゆく感じるのは私だけではないはずだ。

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官邸崩壊

書影

著 者:上杉隆
出版社:新潮社
出版日:2007年8月27日発行 9月30日7刷
評 価:☆☆☆☆(説明)

 副題は「安倍政権迷走の1年」。前の前の政権の、発足から終焉間際までの約1年間の顛末の記録だ。新聞やテレビなどのメディアを通しては見ることのできない、政権内部での出来事がつづられている。ニュースで見たあの場面のウラは、こういうことだったのか!という話題が満載で面白かった。

 そもそも私が1年以上前に出たこの本に興味を持ったのは、今の麻生政権に大きな疑問を持ち、「いったい何でこんなことになるんだ」と思い、政権の内部事情を書いたこの本のことを思い出したからだ。
 各社の調査で20%そこそこの支持率しかない現政権だが、大きな失策というよりは、何もしない(できない)のに自壊しているように思える。そう言えば、安倍政権も閣僚の不祥事が相次ぎ、守ることも切ることもできずに自壊した。最近の短命政権に共通するのは、無為無策による自滅だ。

 本書に話を戻すと、議員秘書からジャーナリストに転身した著者が、その経歴や人脈をフル活用して取材したと思われる出来事が、独自の解釈を加えて紹介されている。すべて実名で、エラい先生方のあれこれの振る舞いが書かれているので、永田町からの風当たりは強かったろうと思う。もちろん、先生方にも言い分があるはずだし。
 先生方の言い分を大幅に考慮に入れて、著者が加えた解釈も含めて、控え目に見て本書の半分が真実だとしよう。それでも感じるのは考えの浅さだ。自分なりに考えて一手を指すのだが、考えが足りずすぐに駒を取られてしまう、初級者の将棋のようだ。「これがいい」と思って口にするのだが、支持を得られず実現もしない、現政権の政策も同じ理由によって迷走しているのだと考えれば説明がつく。

 つまりは人材がいないのだ。幸いなことに登場する官邸スタッフや政治家に私利私欲で動く人はいない。功名にはやることはあるが、行おうとする政策は良かれと思ってやっていることだ。でも、政治は結果で評価するしかない。ねじれ国会や金融危機という逆風もあるだろうが、迷走する政権が3代も続いているのは、永田町と霞が関にもう人材がいないことを表しているのではないだろうか?
 冒頭に「面白かった」と書いたが、それは読み物としてのこと。その後には言いようのない寂しさを感じた。

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授業改革に挑む

書影

著 者:東海市教職員会
出版社:文芸社
出版日:2006年1月30日 初版第2刷発行
評 価:☆☆☆☆(説明)

  2004年11月に、愛知県東海市で市内18のすべての小中学校が、「授業改革に挑む」というテーマで研究発表を行った。本書はその発表をベースに教職員会がまとめた報告書だ。副題は「教師が変われば子どもが変わる 動き出した教職員」
 この発表会に先立って、東海市では約2年間にわたって授業研究(改革)が、さまざまなテーマで行われた。もちろん、こうした取り組みの前には、これだけの改革を決意させるに足る問題を抱えていた。小学校は学級崩壊、中学校は校内暴力、すべての学校ではないけれど、子ども達が落ち着いて学習できる環境ではなかった。
 冒頭にある中学の描写ではこうだ「3階からは、机やいすが投げ捨てられた。家庭課室からは包丁が持ち出され….」。この後も荒んだ学校の様子が続く。特別な学校の様子に見えるが、実は全国で同じような光景は見られるし、もっと言えば、どこの学校でもちょっとしたバランスの加減で同じことが起きうる。

 そして、東海市の小中学校の取り組みが始まった。具体的な内容は本書に譲るが、方針は明確だ。いかにして、子ども達に「分かりやすい授業」を行うか、この1点のために、徹底して授業を分析しその質を高める、ということだ。そのためには本気で議論する。そうしたことの積み重ねの成果が、授業にそして子ども達に現れるのだという。
 また、総合の時間のカリキュラムや教材作り、小中学校を通じて一貫した評価システムなど共通の課題には全市で取り組んでいる。授業を変えるには、1人1人の教師の力量を伸ばすことが不可欠だが、それを教師個人の頑張りに頼るのではなく、システムとしてバックアップすることが大切だ。
 その授業改革の結果、子ども達が落ち着いて学べる環境を取り戻すことができた。まぁ意地悪な見方をすれば、「普通」に戻ったに過ぎない。しかし、教師が変わり、授業が変わり、子ども達が変わったことは事実。その経過が本書で克明に記録されている。

 東海市が得た結論もまた明確だ。「教育改革は授業改革に尽きる」さらに、「授業改革には教師の自己改革が必要」。私は、このことを現場の教師にではなく、教育改革を謳う関係者に言いたい。最近は下火になって来たが、学校選択制、バウチャー制度といった「制度いじり」、それによる競争原理の導入こそが教育改革だ、という理屈があり、大きな声で言う人々がいた。
 この方法は、教師に競争というプレッシャーを与えて頑張らせよう、というものだ。規制緩和によって競争を起こして、経済を活性化させようという発想と同じ。結果は一例として、大規模店の出店によって廃退した地方の商店街を見れば、成功したとは言えない。
 地方の企業に、そして現場の教師に、自己改革を促す方法が競争原理以外にある。本書は極めて示唆に富む本だと思う。

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異次元の刻印(上)(下)

書影
書影

著 者:グラハム・ハンコック  訳:川瀬勝
出版社:バジリコ
出版日:2008年9月21日 初版第1刷発行
評 価:☆☆☆(説明)

 ハンコック氏の著書は、人類の歴史についての主流とか定説になっている学説に、真っ向から反対するものばかりだ。それ故、著者の本は「トンデモ本」との評価を免れない。それでも、私が何冊もお付き合いしているのは、著者の主張に一片の真実がある可能性を感じるからだ。また、その主張を裏付けるための取材に見る、著者のバイタリティが敬服に値するからだ。
 その取材のあり方について、「都合の良いところだけのつまみ喰い」という批判があることはもちろん承知している。著者は記者であって、そのテーマを専門とする研究者ではないので、専門家からはイロイロと言いたいこともあるだろう。
 私自身も、これまでに展開された数多くの主張の中には、飛躍しすぎた論理展開など、ついて行けないこともあった。しかし、それでも著者の主張が全くのデタラメである、と論証するのは誰であっても難しい、とも私は思うのだ。

 さて、本書での著者の主張はおおむね次の通り。
 「先史時代の洞窟壁画に描かれた絵、アフリカやアマゾンのシャーマンが得る啓示、ヨーロッパ各地に残る妖精伝説、宗教家が受けたとされる天からの啓示、UFOに拉致されたと主張する人々が遭遇した場面、薬物の摂取によって見る幻覚、これらには多くの共通点がある。そしてこれらは、太古の昔に生物のDNAに組み込まれた暗号であるか、または、通常は脳が感知できない周波数で振動している次元に実在する現実である可能性を否定できない」。
 「先史時代、シャーマン、妖精、天からの啓示、UFO、薬物」これらのワードは、それだけで何となく胡散臭い。「トンデモ」な文脈で語られることが多く、科学者と呼ばれる人々は、道を誤りたくなければ公には口にしない類のものだろう。しかし「胡散臭い」という印象の他には、これらを完全に否定する要因がないのも事実。逆に、こういったワードについて、様々に語られている証言を一旦肯定した上で考察を進めたのが、著者の主張だ。

 同列に語ることに違和感や嫌悪感を覚える人がいるかもしれないが、著者の主張の一部は、量子物理学、宇宙物理学の分野と接近している。超ヒモ理論などで言われる多次元空間や並行世界、宇宙の大部分を占める「暗黒物質」。これらは多くの人が感覚的に理解できないし、目にすることもできない。なのに「トンデモ」とは言われない。
 先ごろノーベル賞を受賞した研究「対称性の破れ」だって、宇宙誕生のその瞬間の研究だけれど、これまでの知識の積み重ねがなければ、ビッグバンなんて考えは、完全に「トンデモ」視されているだろう。

 「胡散臭い」という心のカセを外すことさえできれば、説得力がある論理の展開だ。もし、読者がそのようなことができるのならオススメする。面白い読み物となるだろう。

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ブログがジャーナリズムを変える

書影

著 者:湯川鶴章
出版社:NTT出版
出版日:2006年7月7日初版第1刷
評 価:☆☆☆(説明)

 著者は時事通信社の編集委員。他の誰よりもジャーナリストを体現する仕事だと言ってよいだろう。その著者が、「ジャーナリズムを変える」という本を書いた。以前には「ネットは新聞を殺すのか」という本を書き、同名のブログを運営していた。本書は、そのブログから得た知見をまとめたものだそうだ。
 そんなわけで本書は、ジャーナリストがジャーナリズムを斬る、といった趣の本。一番詳しいようでいて、一番評価が難しいのが自分のこと、自分が属するもののこと。切れ味はどうかと思ったら、これが意外と鋭かった。

 というのも、著者は、「自分たちはジャーナリストだ」と声高に言う人が嫌いらしい。新聞記者の勉強会で、報道機関のビジネスモデルの話をした時のエピソードが紹介されている。質問がビジネスモデルのことに集中したところ、「ビジネスモデルのことばかり言うな!君たちは経営者かジャーナリストか、どっちなんだ」という発言があったそうだ。
 ジャーナリストはカネ儲けの話をするな、ということなんだろうけれど、その奥には「自分たちは特別」という意識が透けて見える。そんな閉鎖的、特権的な意識がお嫌いなんだろう。こうした経験や考えが、著者をして理性的で中立的なジャーナリズム分析を可能にしているのだろう。

 そして、本題のブログとジャーナリズムの関係では、参加型ジャーナリズムとしてのブログの可能性や影響を分析している。多くの人がブログを開設し、独自の観点から意見を表明することができる。このようにアマチュアのジャーナリズムが誕生した今、プロの仕事の意義は何か?ということが書かれている。
 まぁ実際は、本書が期待したようには、日本の参加型ジャーナリズムは盛り上がっていない。けれども、本書が出版された2006年ごろには、韓国の「オーマイニュース」が台頭し、国内でも市民記者によるレポートを掲載するサイトが開設され、アマチュアジャーナリズムの将来性が論じられれていた。本書も、そうした空気の中で書かれたものだし、予言書ではない。そういった意味では、今この本を読んで、当たり外れをあれこれ言っても価値のないことだ。
 そういった意味合いもあり、この人が「今」を論じたら何を言うのかを知りたいと思う。それで、著者の近刊「次世代マーケティングプラットフォーム」にも注目している。

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生物と無生物のあいだ

書影

著 者:福岡伸一
出版社:講談社
出版日:2007年5月20日第1刷 2008年2月8日第14刷
評 価:☆☆☆☆(説明)

 50万部を超えるベストセラー。比較的安価で手に取りやすい新書であることを考えても、学術的なテーマであることを考えると、よくこれだけ売れたものだ、と思う。
 本書は、生物と無生命との境界線(著者はエピローグで、界面(エッジ)という用語を使っている)を、著者の専門である分子生物学の知識をベースにさぐる良書だ。生物と無生物の境界線をさぐることは、つまりは「生命とは何か」を考えることでもある。
 そして「生命とは何か」というテーマは、深遠でありながら、多くの人の興味を引く、抜群の魅力というか市場性のある「おいしいテーマ」だ。それを、本人の研究成果や、この分野のちょっと気の利いたエピソードを交えて、平易な言葉で軽く、しかしあくまで真剣に綴る。最初に「よくこれだけ売れたものだ」とは書いたけれど、読んでみて分かったが、これだけ条件が揃っているのだから、売れるべくして売れたのかもしれない。

 詳細は、本書を読んでもらうとして、ちょっとだけ中身を紹介。前半は、今や中学で教える学校もある、DNAの二重らせん構造の発見を中心とした、ノンフィクションドラマ風読み物だ。その分野に属する人々には周知のことかもしれないが、外部の人はほとんど知らない「本当はこうなんだよ」という話が次々と語られていて、とても面白い。
 後半は、いよいよ「生命とは何か」について、少しづつ少しづつ論を進めて、生命の姿を現していく。大学の生涯学習講座を聴講しているかのような分かりやすさだ(そして、基礎知識さえ持たない聴講生が飽きないような工夫も)。
 「生命とは何か」という命題に対する本書の結論には、批判や不服もあるだろうが、著者なりの結論は出ているし、私はこれで良いと思った。

 ところで、皆さんが食べ物として摂取したタンパク質に含まれる窒素は、体重が変わらないとすると、食べ物を口にした後、どうなると思いますか?このことを知りたいと思った人なら、本書を面白く読めると思う。きっと新鮮な驚きがありますよ。

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広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由

書影

著 者:スティーブン・ウェッブ 訳:松浦俊輔
出版社:青土社
出版日:2004年7月8日第1刷発行
評 価:☆☆☆(説明)

 本書は、物理学者である著者が、「フェルミのパラドックス」と呼ばれる疑問の50通りの解を紹介し、その解に関連した学問上の話題を解説したものだ。「フェルミのパラドックス」とは、「銀河系に恒星間通信ができる地球外文明(Extra-Terrestrial Civilization:ETC)が相当数あると推定されるのに、どうしてまだこちらへ来ていないのか、せめて向こうからの声が聞こえてこないのか?みんなどこにいるんだろう?」というものだ。
 「銀河系にETC(車に載せるのじゃなくて「地球外文明」)が相当数あるって考えるのが、そもそも間違いじゃないの?」と多くの人が思うだろう。私もこの解を示せと言われれば、そう答えるだろう。

 ところが、銀河系には数千億もの恒星があり、一定の割合でそれぞれ複数の惑星を持っている。「(地球には特別なところは特にないとする)平凡原理」を適用すれば、生命にふさわしい環境は億単位で存在するはずなのだ。
 それでも先の「銀河系にETCが..間違いじゃないの?」と言うのであれば、「そのうちの知的生命が誕生する割合は..。さらに..」と考えていって、最終的に地球に対して通信を行うETCがゼロになることを示さなければ、解を示したことにはならないのだ。

 そして、このパラドックスに対して50通りもの解がある。このことにまず驚く。人類の想像力、知的探求心に、無限の可能性を感じる。もちろん、ある解を発展させて別の解を導いているものもある。また著者の判断では「これではこのパラドックスの解としては不十分」というものもあり、どの解も同じように確からしいわけではない。
 しかも、読み物としてはあまり確からしくないものの方が面白いから厄介だ。私が一番気に入ったのは、解1の「彼らはもう来ていて、ハンガリー人だと名乗っている」だ。フェルミがいたロスアラモス研究所には、(ノイマン型コンピュータで有名な)フォン・ノイマン他、人間離れした知性を持ったハンガリー人研究者が何人もいたそうだ。

 また、本書は科学知識の広く浅い読み物としても面白い。「フェルミのパラドックス」の解の紹介という形を取ってはいるが、取り上げられる話題が豊富だ。UFO、太陽系、宇宙物理学、相対性理論などは、本書のテーマから考えてありそうな話題だが、その他にもDNAや生命の誕生、進化など、ちょっと知的好奇心をくすぐる話も満載だ。
 難解な話も少なからずあり、くじけそうになるかもしれないけれど、宇宙と科学にちょっと興味がある方の話題作りに役立ちそうだ。

 この本は、本よみうり堂「書店員のオススメ読書日記」でも紹介されています。

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大量監視社会 誰が情報を司るのか

書影

著 者:山本節子
出版社:築地書館
出版日:2008年4月20日初版発行
評 価:☆☆☆(説明)

 「本が好き!」プロジェクトで献本いただきました。感謝。

 著者は、行政ウォッチャー、調査報道ジャーナリストとして、主に環境問題、ゴミ問題に取り組んでこられたようだ。他の書籍は読んだことがないのでわからないが、本書を読む限り、膨大な資料を読み解き、そこから1つの文脈を探り当てる手法のようだ。その手腕は並大抵のものではない。各章末に記載される参照資料の量が、著者の分析力とエネルギーを表している。

 高速道路に設置されたETCやNシステム、コンビニやスーパーなどの商業施設に留まらず街中に設置された監視カメラなどによって、我々の生活は監視されている。本来、「監視」というのは、悪を為す可能性のある者を見張ることであったはずが、「安心、安全のため」という名の下に、国民全員を監視する仕組みが出来上がってしまっている。これが、タイトルの「大量監視」の意味するところだ。

 話は、官僚と企業との癒着、いや実際には企業に主導権を取られている実態とか、米国の悪名高い盗聴システム「エシュロン」の話とか、様々に発展して行き、それぞれ読み応えがある。そして、その発展が収斂していく先にあるものは、「日本はまた戦争をするのではないか?」という重大な懸念だ。
 住基ネット、教育基本法改正、有事関連法、IT機器やGPSの利用など、一つ一つの出来事は、若干の違和感はあっても、許容範囲、もしくは好ましい変化だとさえ思えるようなものであっても、あるフィルターを通して見ることで、とんでもない方向を指し示していることが分かる、そんな感じだ。

 9.11以降、国外や入出国を見ていた米国の監視の目が、米国内に向き始めた。日本の警察組織だって、国民の安全を守る組織もあるが、国の治安や体制維持のためには、国民を監視し、場合によっては拘束する組織だってあるのだ。
 本書は、最後の章でナチスのユダヤ人虐殺の際に、いかに情報システムが有効に使われたかを示している。そういったことを考え合せると、一見バラバラに取得されているように見える、我々の生活の断片の情報が、一か所に集約される可能性があるとしたら、サブタイトルの「誰が情報を司るのか」の答えが「国家」であるとしたら...著者の重大な懸念が、起こりうる現実となって迫ってくる。

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ワーキングプア 日本を蝕む病

書影

著 者:NHKスペシャル「ワーキングプア」取材班
出版社:ポプラ社
出版日:2007年6月11日第1刷
評 価:☆☆☆☆(説明)

 2006年の7月と12月に放送されたNHKスペシャル「ワーキングプア ~働いても働いても豊かになれない~」「ワーキングプア2 ~努力すれば抜け出せますか~」の取材を基に、数多くの事例を紹介するドキュメンタリー作品。この国を蝕む「新貧困」問題を問う議論するための絶好の事例集となっている。

 「新貧困」や「ワーキングプア」とはどういったことか?「ワーキングプア」とは、「働いても生活保護水準以下の暮らしを強いられている人たち」と、本書の中では紹介されている。「新貧困」については、明確に定義されている箇所はないようだ。しかし、海外に目を向けて、飢餓に直面するような「貧困」と区別するために「新」を冠した、ということのようだ。 
 新しい事態を表すためには、新しい言葉が必要となる。「新貧困」という言葉自体が適切なのかどうかはまだ判断できないが、「貧困」と区別したのは正解であると思う。なぜなら、報道番組やワイドショーのコメンテーターの中に、「世界の飢餓に苦しむ人に比べれば、日本はまだいい方ですよ」とか、「日本ほど格差のない社会は、世界中見渡しても数すくないんじゃないですか」という発言をする人が散見されるからである。
 意図的であるのかどうかは別にして、より程度のひどいものを持ち出すことで、問題を軽く(あるいは問題なんかないように)見せる手法だ。同じ「貧困」という言葉で括れば程度の差で比較してしまう。だから違う言葉で語った方が良いと思うのだ。確かに飢餓に直面する「貧困」に比べれば、日本の「貧困」問題はその悲惨さにおいて大したことがないのかもしれないから。

 しかし、問題は確かにそこにあって、放置しておけない状態にまで悪化している。本書はそれを分らせてくれる。政治家や官僚の皆さんには、是非目を通してもらいたい。

 「ワーキングプア」にも一括りにして言えないほど、様々なパターンがある。どんなに真剣に職探しをしても「派遣」や「日雇い」などの不安定な職しか見つからない、子育てをしながらパートを2つ掛け持ちしても月収が10数万円にしかならない女性、海外の安い労働力との競争で単価を極限まで切り詰められて、働き詰めでも手元にほとんど現金が残らない中小零細企業など。
 様々な例の中には、政策の失敗と思われるものも少なくない。労働者派遣法の改正は、企業活動にはプラスの効果があったかもしれないが、働く者の立場を危うくしたことは否めない。政府が打った「自立支援」策は、結果的に補助すべき人々をさらに窮地に陥れている。

 政策の失敗とまでは言い切れないが、衝撃を受けたのは岐阜の繊維産業の惨状だ。安い中国製品との競争で仕事が減ったり、単価が安くなったりした。このことは想像の範囲内で、もはや到る所で同じ問題が起きている。ここの問題はさらに根が深い。中国などから研修生や実習生という名目で来日した人々が7,000人もいて、同じ現場で働く労働人口の実に4割も占めるという。
 その研修生、実習生が時給200円で、日に10時間以上、月に1日あるかないかの休みで就労しているというのだ。これはもちろん違法で許されることではないのだが、競争はこの条件を含んでいて、異常な低水準の単価で行われている。法律を守る業者はいずれ退場するしかないのが現状だ。

 日本は高品質で容易にマネのできない製品で勝負、という経済界や官僚の勇ましいカケ声は一見前向きでもっともらしい。しかし、その「Made in Japan」を中国からの研修生、実習生が低賃金で作っているのでは、そのカケ声は虚ろにしか響かない。
 この研修生、実習生の制度は、日本の発展途上国に対する国際貢献を目的として制度化された。違法行為を想定した制度などないだろうが、国の政策には違いない。国の政策が国の産業と国民を窮地に追い込んでいることも事実なのだ。

ここから先は、書評ではなく、このことに関する私見を書いています。
興味のある方はどうぞ

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