2.小説

逃亡くそたわけ

書影

著 者:絲山秋子
出版社:中央公論新社
出版日:2005年2月25日 初版発行 
評 価:☆☆☆(説明)

 始めて著者の作品を読んだ。2005年の直木賞候補作。記憶が定かではないのだけれど、たしか書評コンクールの課題図書になっていたのと、翌年に著者が「沖で待つ」で芥川賞を受賞したこともあって気になっていた。図書館の書棚を物色中に目に留まりてに取ってみた。170ページと思いのほか薄い本だった。

 とにかく驚いた。物語の初めからどうなるのか心配でならない物語なのだ。主人公は躁状態で入院した21才の博多女の「花ちゃん」。彼女が、うつ病で入院していた名古屋生まれの男24才の「なごやん」と一緒に走っている。どうして走っているのか?病院を脱走したのだ。
 準備万端の脱走ではなくて、その日の朝思いついたもので、花ちゃんがそのためにやった準備は「サンダルではなくて靴を履いた」ことだけ。なごやんを道連れにしたのは、そこに彼がたまたま居たから誘っただけだ。「ね、一緒に逃げよう」と言って。

 その後もこの逃亡劇は続いて、ロードムービーの体なのだけれど、これがとにかく行き当たりばったり。当初心配された見つかって連れ戻されることより、もっと重大な事件が起きそうで(いや起きてるんだけど)、私の心配は増すばかりだ。花ちゃんなんて車の免許ないのに運転してるし。
 私のハラハラ感と対照的な、逃亡中の2人の実にカラッとした感じがこの本の持ち味。2人が言いたいことを言い合う(いや言いたいこと言ってたのは花ちゃんか)会話が小気味いい。博多言葉がこの小気味よさに一役買っているのはもちろんだ。

 実は昨年の春に、大分-別府温泉-阿蘇-高千穂-熊本をレンタカーで走ったことがある。花ちゃんの逃亡コースに一部重なっているので、雰囲気というか車窓の描写をうまく思い浮かべることができて楽しかった。とにかく広かった。阿蘇に向かう道なんて遮る物なく、遥か向こうまで道が続いている感じだった。「どこまでも逃げる」という思いに相応しい情景だ。

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キケン

書影

著 者:有川浩
出版社:新潮社
出版日:2010年1月20日 発行 
評 価:☆☆☆☆(説明)

 様々なところの紹介文に「理系男子」とあるが、より正確には「工学男子」の熱血青春物語だ。成南電気工科大学の部活「機械制御研究部」略して「キケン」の1回生と2回生の部員が巻き起こす、ぶっ飛んだ危険な騒動の数々が、キラキラした結晶のような輝きを持って語られる。

 主な登場人物は、2回生で部長の上野直也、副部長の大神宏明、1回生の元山高彦と池谷悟、その他の「キケン」部員の面々。そして最も危険なのが部長の上野。彼は「火薬」という漢字が書けない頃から火薬で遊んでいた強者だ。ついた渾名が「成南のユナ・ボマー」
 彼らの、新入生勧誘や学園祭やロボット相撲大会という学園生活を通しての、ハチャメチャだけれども全力投球のエピソードが本当に楽しい。工学男子はモノが造れるのがうらやましい。学園祭のレベルを遥かに超えるラーメン屋の屋台でも、出前用の岡持ち付きの自転車でも自分たちで作ってしまう。そして爆弾でも鉄砲でも..造ろうと思えば..

 本書は元山が自分の妻に思い出を話す昔語りの形式になっている。最初は、どうして昔語り?と思ったのだけれど、読み終わった今となっては、これには著者の計算があったと思っている。思い出として語ることでキラキラとして見えてくるし、「"元"男の子」であるはずの世の大人の男性は、自分が「男の子」であった頃を思い出さずにはいられないからだ。
 「部室」という言葉を見れば、私は高校の部活(軟式テニス部でした)の雑然とした汗臭い部屋が目に浮かぶ。工学男子ではないけれど、私は今に至るまで工作が好きだし、火も好きだ(ちょっと危ない表現だけれど)。さらに著者は、そんな「"元"男の子」の気持ちを激しく揺さぶる仕掛けを最後に用意していた。私もこれに完全にやられてしまった。

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めくらやなぎと眠る女

書影

著 者:村上春樹
出版社:新潮社
出版日:2009年11月25日 発行 
評 価:☆☆☆(説明)

 村上春樹さんの短篇集。「象の消滅」と同様に、米国で編集され英語で出版された自選短篇集と同じ作品構成という企画だ。日本での出版が古いものでは1983年の短篇集「カンガルー日和」から「カンガルー日和」や「スパゲティーの年に」他、新しいものでは2005年の「東京奇譚集」から「ハナレイ・ベイ」や「品川猿」他の全部で24編もの短編が収録されている。
 著者のデビュー作「風の歌を聴け」は1979年の作品だから、本書はデビュー直後から最近までの著者の短編のショウケースのような趣がある。「英語圏の読者に向けて」という注釈は付くが、著者自らが選択した作品を24作品もまとめて読めるのだから、ファンにとってはうれしい一冊だと思う。

 一部を除いて(私が見たところ3つ)、既出の短篇集に収められた作品ばかりなので「これほとんど一回読んだやつなんだよなぁ」という心配はあった。でもそれは結果的には杞憂だった。以前に読んだことがある(はずな)のだけれど、全く覚えていなかったり、展開に驚いたりと面白かった。覚えている作品でさえ、著者らしい言い回しやストーリーを楽しめた。
 ただ、本書が多くの人に受け入れられるかどうかは正直言って微妙なところだ。特に前半に収録されている作品は、フワフワしていてつかみ所がない上に、フッっと音も立てずに終わってしまう感じ。それでいて、「あぁこれは村上春樹らしいなぁ」と感じる物語の小片になっている。でも「村上春樹らしい」という感覚が元々無ければ「訳が分からない」という気持ちが残るだけではないだろうか。
 しかし、後半の作品は少し骨組みや肉付けが感じられる。収録順は「東京奇譚集」の収録作品が最後になっていて、ゆるやかには年代順になっているようなのだが、何の順で並んでいるのか分からない。思うに、本書を通して少しずつ「村上春樹作品」なるものの形が見えてくるような趣向なのではないだろうか。

 本書冒頭に「Blind Willow, Sleeping Womanのためのイントロダクション」という6ページの著者からのメッセージが載っている。著者にとっての長編小説を書くこととは何か、短編小説を書くこととは何か?ということが綴られている。著者の肉声に接したような気がした。

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きつねのはなし

書影

著 者:森見登美彦
出版社:集英社
出版日:2006年10月30日 発行 11月20日 2刷 
評 価:☆☆☆(説明)

 著者の2006年の作品。表題作「きつねのはなし」と「果実の中の龍」「魔」「水神」の4作品を収めた短編集。単行本としては「太陽の塔」「四畳半神話大系」の次、「夜は短し歩けよ乙女」の前の作品だ。
 このようなことを書いたのは、本書の趣がその前後の作品とは大きく違うからだ。これまでの作品は、大学生のグダグダな生活を描いた、笑いの中に青年の屈折を包んだものだった。ところが本書は、京都の街が持つ「妖しさ」に焦点を合わせてグッと寄った作品で「異色」と言ってよいだろう。

 4編はそれぞれ独立した作品だが、共通の人物が登場するなどして、緩やかなつながりがある。「芳蓮堂」という名の古道具屋、そこの女主人、怪しげな客、からくり幻燈、そして胴の長いケモノ。こうしたものがそれぞれいくつかの作品に登場し、効果的に「妖しさ」を演出している。そして、妖しい余韻をたっぷりと残して物語は終わる。

 「異色」ということについてだが、京都は人口の1割が大学生だと言われる「学生の街」であり、1200年の歴史が層となって積もった「歴史の街」でもある。学生時代からこの街に住む著者が、大学生の暮らしを描く一方で、目に見えぬ歴史の層が醸し出す「妖しさ」を描こうとしたのは自然なことであったと思う。
 そして、神社の灯篭やお祭りの提灯の朱い灯のような「妖しさ」を描く方向性は「宵山万華鏡」へとつながる。以前「宵山万華鏡」のレビューに、「やっと森見さんがやりたかった物が...」というコメントをいただいたことがあった。今なら、私にもそうしたつながりを2つの作品の間に感じることができる。

 本書で、これまでに単行本として出版された著者の作品はすべて読んだことになりました。コンプリート達成!
 「森見登美彦」カテゴリー

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f植物園の巣穴

書影

著 者:梨木香歩
出版社:朝日新聞社
出版日:2009年5月30日 第1刷発行 6月10日 第2刷発行
評 価:☆☆☆(説明)

 私が初めて読んだ著者の作品「家守綺譚」に似た雰囲気の作品、という話を耳にして手に取ってみた。「似た雰囲気」の意味が10ページも読んだあたりで分かった。本書の世界は、この世ならぬ者たちがごく自然にそこに存在する世界なのだ。「家守綺譚」で河童や鬼、狐狸妖怪の類がいたように。
 とはいえ、本書はホラーでもオカルトでもない。登場するこの世ならぬ者たちは、焦ると犬になってしまう歯科医の家内、雌鶏頭になる大家、ナマズ顔の神主らで、他人を脅かしたり、ましてや害をなす者ではない。普通にそこに存在する。ここは、そういう異界なのだ。

 主人公は佐田豊彦、植物園に勤務する技官で1年近く前にf植物園に転任してきた。1年以上放置していた歯痛が、いよいよガマンならなくなって歯科医に駆け込んだあたりから異界に踏み込んだらしい。窓口で薬袋を差し出した手が犬のそれだった。
 上に書いたように、その手は歯科医の家内の手だったのだが、そのことを歯科医に訴えたところ、帰ってきた返事が「ああ、また犬になっていましたか。」だ。ここから物語は夢の中のようにフワフワした非現実の世界に漂いだす。妻が犬になっていても動じない世界では、何も確実なのものとして信じられない。

 本書を読んでいて思い出したのは、ジョージ・マクドナルドの「リリス」。トールキンらに影響を与えたと言われる、ファンタジーのルーツのような作品で、浅い夢を見ているような、まさに「幻想文学」だ。夢の中のような異界をさまようということと、そこから醸し出される雰囲気が本書と似ている。
 「リリス」は宗教的な含みを持った生と死を扱った物語だが、本書は主人公の心を映す物語だ。途中で水の中を下に下にもぐっていくのは、心の奥へ奥へと進むことを表しているように思う。そこで出会ったものは、主人公の心にひっそりとあった、しかし決して消えることのなかった何かだった。

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レインツリーの国

書影

著 者:有川浩
出版社:新潮社
出版日:2006年9月30日 発行 
評 価:☆☆☆(説明)

 本書は著者のベストセラーシリーズの1冊「図書館内乱」に登場する本。スピンオフ作品ということになるが、「図書館内乱」の出版が2006年9月10日、本書は9月30日だから、著者は両方の作品をおそらく並行して用意していたことになる。
 実はそのあたりのことは、あとがきで著者が説明してくれている。この本のテーマは「図書館内乱」でも重要な位置付けを与えられている。著者にとって重みのあるテーマだったために「図書館内乱」の中には収まりきらなかった、ということらしい。

 「図書館内乱」を読んだ方なら、本書のことは知っておられるだろう。教官の小牧が幼なじみの毬江に渡した本だ。図書隊員がこの本を渡したことが、毬江の同級生たちの未熟な正義感を刺激してしまう。なんだか持って回った言い方になったが、「図書館内乱」を未読の方にはネタバレになるので、核心部分は言えない。
 それは、著者もできれば核心部分を知らないで読んでもらいたい、と思っているのではないか?と思ったからだ。残念ながら私はそういう読み方は叶わなかったが、それでも核心が明らかになった時に、それまでに著者が施した仕掛けにヒザを打つ場面があった。この感触は、その核心部分を知らないで読むことで一層鮮明になるはずだ。

 主人公の伸とひとみは共に20代。二人が出会うきっかけは、中学生のころ読んだ「忘れられない本」。ひとみがブログに書いた、その本についての「10年目の宿題」を、伸が見つけてひとみにメールを送る。..本の感想をブログに書いている身としては、ムズムズして落ち着かない展開。
 正直に言うと、スピンオフ作品を侮っていた。「「図書館内乱」に出てきたあの本が実際にあったら面白いかもね(もっとひねくれて言えば、売れるかもね)」という程度のモノだと思っていた。ところがこの本は「直球のラブストーリー」で、思いのほか心を揺さぶられた。

 気になったのは1つ、伸の言葉が多すぎて煩わしいこと。一生懸命なのは分かるが、何もかもを言葉にしてメールで相手に投げつけている感じ。上に書いた著者の仕掛けも伸がベラベラと明かしてしまうし。でも、元々そういう性格のヤツには違いないんだけれど、こんなふうに長々とメールで伝えなければならない理由も伸にはあった、と読み終わってしばらくしてから思い至った。

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猫を抱いて象と泳ぐ

書影

著 者:小川洋子
出版社:文藝春秋
出版日:2009年1月10日 第1刷発行 
評 価:☆☆☆☆(説明)

 「ダ・ヴィンチ」1月号で、2009年の「編集部が選ぶプラチナ本 OF THE YEAR」に選ばれた作品。著者の最高傑作との声もあり、さまざまなところで高い評価を得ているので、取り寄せてちょうど読んでいたところに、「プラチナ本~」の記事に接して、ますます興味が湧いた次第だ。
 昨年出た本で一番か?というと「そうだ」とは言い難いけれど、この悲しくも美しい物語と、静謐な音楽か詩のような文章は、他の本では感じることのない「特別な何か」を持っている。その意味では特筆すべき1冊であることは確かだ。

 主人公は「リトル・アリョーヒン」と呼ばれたチェスプレイヤー。アリョーヒンは実在のチェスのグランドマスター。主人公はそのグランドマスターになぞらえられて「リトル」を付けて呼ばれている。
 唇が癒着して生まれてきた彼に対し、祖母は「神様はきっと他のところに特別手を掛けて下さって、唇を切り離すのが間に合わなかったんじゃないだろうか」と言う。その神様が特別手を掛けて下さった部分が、類まれな記憶力と集中力。
 それを基にしたチェスの腕はまさに天才。何しろ彼はチェス盤の下にいて(つまり盤上を見ないで)、どこに相手が駒を指したかを感知し、刻々と変わる盤上の配置を正確に記憶し、どんな強いプレイヤーとも互角に戦ってしまうのだ。

 物語は彼が少年時代にチェスの手ほどきを受け、成長して「リトル・アリョーヒン」と呼ばれ、チェスを指す場所を変えて生きていく様を、時々の彼を取り巻く人々との関係を交えて悲しくも静かに描写していく。
 本書の芯には「優れたチェスの対戦が残した「棋譜」は、詩や音楽のように美しい」という確信がある。このあたりは、数式を美しいと言った「博士の愛した数式」と相通じるものがあると思う。
 そして、著者はその確信を、駒の動かし方しか知らないチェスの素人の私にも共有させることに、その筆力によって成功させた。私も、チェスの棋譜から美しさを感じてみたい、と心から思った。

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シアター!

書影

著 者:有川浩
出版社:アスキー・メディアワークス
出版日:2009年12月16日 初版発行 
評 価:☆☆☆☆(説明)

 「有川先生、ありがとうございます。この本、とても面白かったです。」と、著者に会うことがあれば言いたい。本書は、12月16日に創刊された「メディアワークス文庫」というエンタテイメント小説の文庫の第1弾の8冊の内の1冊。公式ホームページを見ると、「図書館戦争の有川浩をはじめ、豪華作家陣オール書き下ろし」とあって、本書が目玉作品であることが分かる。

 物語の舞台はそこそこ力のある小劇団「シアターフラッグ」。登場人物はほぼ劇団の面々だけ。主人公は劇団の主宰の巧。彼は人見知りがひどく、子どもの頃はいわゆる「いじめられっこ」。遊ぶ相手は兄の司だけ。それも決まって、とっくに放映の終わったテレビのヒーローのソフビ人形でのゴッコ遊び。レッドが巧でブルーが司というのも決まっている。
 司が助けなければ、人生から脱落してしまいそうだった巧が演劇と出会い、人並みに生きていけるようになったことは司も嬉しく思っている。しかし、演劇で食えてはいない。好きな事をやっているのだから貧乏で当たり前、ということらしい。案の定300万円の借金を抱え、返せなければ劇団が潰れてしまう、という緊急事態から物語は始まる。

 劇団員は10人いるのだけれど、それぞれが抱える微妙な感情の揺れの描き方がうまい。おそらく練りに練ったセリフが、狙い済ましたように物語の随所で繰り出される。そのセリフを言ったりつぶやいたりした、その時だけはその登場人物が主人公になる。彼や彼女の物語が突然目の前に開けるのだ。
 むしろ巧だけがそういった感情の発露がなかった、と言えば言いすぎだろうか。本書は1人の主人公の物語でなく、巧を取り巻く20代の若者たちの群像劇だったのかもしれない。そして、司を入れて11人の思いはクライマックスの公演へと集約される。このスピード感、ハラハラ感は圧巻。 

 ところで、著者の有川さんのデビュー作「塩の街」は、第10回電撃大賞受賞作だ。「電撃」は、本書の出版社のアスキー・メディアワークスのブランド。著者の名を一躍有名にした「図書館戦争」シリーズもこの出版社から出している。
 第1弾の他の作家さんも似たような経緯の方が多いようだが、著者は飛びぬけた出世頭と言えるだろう。その出版社の新文庫創刊への書下ろしは、とても面白い作品だった。自分を世に出した出版社への恩があるとすれば、これは良い恩返しになったと思う。

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田村はまだか

書影

著 者:朝倉かすみ
出版社:光文社
出版日:2008年2月25日 初版1刷発行
評 価:☆☆☆(説明)

 本好きのためのSNS「本カフェ」で知り合いの何人かのブログで見て読んでみようと思った本。(るるる☆さんジーナフウガさん板栗香さん
 クラス会の話である。40才の大人たちの小学校のクラス会。場末のスナックでの3次会まで流れてきた男3人女2人。冒頭に流れてきた音楽は「夜空ノムコウ」。「あのころの未来に、ぼくらは立っているのかなぁ」。物語を読む前に泣けてきた。

 本書は「小説宝石」に2006年から2007年にかけて掲載された短編を6つ収録した連作短編集だ。「田村」はスナックにいる5人には入っていない。タイトルのとおり、この5人は「田村はまだか」と言って彼を待っているのだ。待っている間に5人+αのそれぞれの人生の1コマが、小学校時代のエピソードを織り交ぜながら順々に語られていく。
 中にはあまりに赤裸々な表現の話もあるのだけれど、5人自身の人生はどちらかと言うと平凡なものと言える。「六年一組が沸き返った」という小学校時代の出来事が一番の事件かもしれない。登場人物の1人が「紙吹雪が見えた」と言ったそうだけれど、読んでいる私にも見えたような気がする。紙吹雪が。
 しかし、大きな事件とは言えないけれど、語られるその1コマはそれぞれの「今」につながる凝縮した1コマだ。その1コマの紹介で、40才になった彼らの今の立場や悩みが鮮やかに伝わってくる。この著者は人物造形や物語の組み立てがうまい。

 私は彼らよりいくらか年上で、高校卒業後に実家出て何度も引っ越しをしていることもあり、もう小学校はおろか中学校時代の友達との交流もない。かろうじて高校の同窓会の音信が聞こえてくる程度、大学時代の友達とも何年も会っていない。もし今、会ったらどんな話をするのだろう?
 12月になり年賀状を書く時期になった。私の年賀状の大半は、恩師や大学時代の友達、以前の会社の同僚や先輩など、自分を過去とつなぎ止める人たちに宛てたものだ。そんなことを思いながら、るるる☆さんオススメの、作曲者の川村結花さんの「夜空ノムコウ」を聞いたらまた泣けてきた。

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イトウの恋

書影

著 者:中島京子
出版社:講談社
出版日:2005年3月5日 第1刷発行
評 価:☆☆☆(説明)

 この著者の本を読むのは初めて。本好きのためのSNS「本カフェ」で友達になった方が「最近、気になってる」んだそうで、記念にと思って図書館の棚から1冊取って読んでみた。たった1冊しか読んでないのだけれど、この著者の本は私とは相性がいいらしい。するすると読めてそして楽しめた。

 タイトルの「イトウ」とは、明治時代の通訳ガイド、伊藤亀吉のこと。彼が英国人の女性探検家の「I・B」のガイドとして、横浜から出発して函館に至りそこから北海道を旅する間を、後年になって本人が残した回想の形でたどる。
 現代の交通の便利な旅でも遠くに2人で出かければ、良くも悪くも特別な情が湧く。まして明治時代の殆どが徒歩という3ヶ月の旅は険しく、頼れるものはお互いだけ。苦難を共に乗り越えるうちに湧いた情を、タイトルのように「恋」と呼ぶのが正しいのか、年上の女性に対する「憧憬」と呼ぶべきなのか分からない。しかし、二十歳の青年イトウの心に「I・B」に対する抗し難い情を刻んだ。

 この回想をイトウは人に宛てた書簡の形で残した。このイトウの物語が、淡々とした記述が逆に情感を醸していて気持ちいい。そして、この書簡を読んでいるのは100年後のイトウの孫娘の娘。そこにもそこはかとない恋の予感?と母にまつわる物語が。現代と過去を結んで並行して物語が進むこの形式は、もう珍しくはないかもしれないが、なかなかの技巧だ。

 本書はフィクションだけれど、イザベラ・バードという英国人の女性探検家が実在し、伊藤鶴吉という通訳の青年を同道して東京から北海道まで旅した史実があるそうだ。そのことは「日本奥地紀行 」(原題:Unbeaten Tracks in Japan)という本として出版されている。機会があれば読んでみたい。

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