これまで、いくつかの謎について私の考察を紹介してきましたが、最終回の今回は「スカイ・クロラ」についてです。少し長くなってしまいましたが、お付き合いください。
「スカイ・クロラ」は「スカイ・イクリプス」を除いた本編5冊の時系列的には最後、出版順では最初の作品です。読む順番について著者の森さんは、 「MORI LOG ACADEMY」で「どこから読んでも良いが、もし5冊を全部読む自信がある人は、第1巻のナ・バ・テアから読むことをすすめる。それが一番誤解がないだろう。もし5冊も読む自信はない、とりあえず1冊、という人には、最終巻のスカイ・クロラを」と書かれています。
また、「ダ・ヴィンチ」のインタビュー記事には、「「スカイ・クロラ」を最初に書いたことに他意はないんです。これ一作でもう続編は書けないだろうと思っていたから、観念して最後の部分から書いてしまった」とあります。
このように「スカイ・クロラ」1冊だけになる可能性を、森さんが考えておられたのであれば、「スカイ・クロラ」1冊の中にも、作品世界を見渡すためのヒント、真相に近づくためのヒントが込められているはずです。
そこで「スカイ・クロラ」を、特に細かい点まで注意して読むことにしました。すると、ヒントという意味では、各エピソードの扉のページにあるサリンジャーの「ナイン・ストーリーズ」からの引用が目を引きます。このような引用は「無くても良いもの」なので、それがあるということは「何か意味がある」はずです。そう思って読むと「ナイン・ストーリーズ」と「スカイ・クロラ」には、その主題に親和性が見えます。
「ナイン・ストーリーズ」は、サリンジャーの自薦短篇集で、9つの短編を通じて直接・間接に描かれているのは、グラース家の7人兄弟です。彼らは「これは神童」(It’s a Wise Child)というラジオ番組に次々と出演する、いわゆる天才児たちです。しかし、「ナイン・ストーリーズ」で描かれる成長した彼らの多くは、どこかバランスを欠いた不安定な人間になっています。兄弟の精神的支柱であった長兄シーモアは拳銃で自殺してしまいます。
「スカイ・クロラ」のカンナミは、自分を指して「特別な子供(325)」と言い、他のキルドレたちにも似た形容がされ、そして大人にならない。グラース兄弟も神童と呼ばれ、そしてうまく大人になれなかった。この2つの物語に共通するのは、フワフワして捉えどころの無い雰囲気だけではなく、描かれているテーマも共通しているのです。森さんは、この引用によって「大人にならない永遠の子ども」の表現を補強したかったのではないでしょうか?
それから、引用されている6編の短編や引用箇所にも意味がありそうです。例えばプロローグの扉の「テディ」の引用箇所にある「死んだら身体から跳び出せばいい~」は「キルドレの再生」を暗示しているように思えます。「人間の再生」は著者が否定されているので、これはミスリードを狙ったものなのでしょう。
第1話の扉の「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」の引用部分は、その物語の中でも前後のつながりがよく分からない部分なのですが、「ハツカネズミ」と「観覧車」という言葉があり、これが回し車の中を駆けるネズミ、「前進しない永遠の回転」を想起させます。
第2話~4話の扉の引用は、引用部分の前後までを含めると、「仮面」「シャロンをきみだと思うことにしたのさ」という言葉があったり、母親が海軍中将になりすましたりします。うがった見方かもしれませんが、「誰かが実はその誰かではない」というトリックが、この物語の中に潜んでいることのヒントかもしれません。
そして、その考えは第5話の扉の引用「エズミに捧ぐ」ではっきりした輪郭を見せます。「私は依然として登場するけれど(中略)どんなに慧眼な読者でも私の正体を見抜くことはできないだろう。」 これは、カンナミが実はカンナミではない、またはクサナギが実はクサナギではない、という暗示と捉えて問題ないと思います。
さらに、「エズミに捧ぐ」は、「本当の眠気を覚える人間は(中略)無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね。」という一文で終わっています。これは、「スカイ・イクリプス」で描かれたクサナギの回復物語を感じさせます。森さんは、「ナイン・ストーリーズ」を読み返した読者が、こうしたことに感付く可能性を(かなり低い可能性かもしれませんが)考え、こんなヒントを仕掛けたのではないでしょうか?
では、続いて、他の5冊との関連性における「スカイ・クロラ」の考察と、いよいよ最後の謎についてです。
このシリーズは、謎の深さというか混迷度が読む順番で違うように感じました。私は、最初は「スカイ・クロラ」から始まる出版順、2度目以降は「ナ・バ・テア」からの時系列順で読みました。そうすると、時系列順、つまり森さんが「一番誤解がない」とされる「ナ・バ・テア」から読む方が悩まないのです。少なくとも「クレィドゥ~」までは、特に何の疑問もないと言っていいぐらいです。
「スカイ・クロラ」を最初に読むと、ミツヤの「貴方はクリタさんの生まれ替わり(クロラ302)」のセリフに代表される、クローン技術めいた人間の再生のことが頭に残ります。すると「フラッタ~」でクリタが登場すると「この栗田がカンナミになるのか?」なんて、もしかしたらしなくていい想像をしてしまいます。「クレィドゥ~」では、「死んだクリタにクサナギの技術を移殖してカンナミに..」なんて考えてしまったり。ミズキのこともそうです。「スカイ・クロラ(156)」でトキノの言葉を聞いていなければ、特に妹か娘かなんて悩むこともなかったでしょう。
とは言え、「ナ・バ・テア」から読んでも「クレィドゥ~」では主人公が誰か分からずに立ち往生し、「スカイ・クロラ」でさらに?が増えるということには変わりがないでしょう。「ナ・バ・テア」を最初にしてこれまで組み立てた私の考察でも、「クレィドゥ~」までは何とか破たんを免れたつもりですが、「スカイ・クロラ」には多くの矛盾が残ってしまいます。どうも全体から浮き上がってしまった感じで、説明がつかないことが多いのです。
謎7 スカイ・クロラが抱える矛盾
最大の矛盾は時間です。それまでの物語との整合性がありません。時系列をみると、クリタについて言うササクラの「死んだのは一週間くらいまえ(78)」、クサナギの「ここに来たのは、七か月前(89)」という言葉が、「クレィドゥ~」とかみ合いません。「クレィドゥ~」の終わりの時点で非武装地帯での戦闘から半年、仮にエピローグを除いたとしてもサガラが病院を訪れたのが1ヶ月前、クサナギがクリタを撃ったのはその前のはずなので、どうしても説明がつきません。
「クレィドゥ~」と「スカイ・クロラ」の順番を入れ替えたり、重ねたりという手もありますが、「スカイ・クロラ」が「時間軸上では最後」ということは、「ダ・ヴィンチ」のインタビュー記事でも明らかにされていて、「スカイ・クロラ」が最後ではないという可能性は排除しなくてはなりません。
次は、「スカイ・クロラ」のクサナギは誰なのか?ということです。「クレィドゥ~(310)」でソマナカは「あれは、別人だ」と言っています。それを受ければ、偽クサナギということになりますが、この偽クサナギには「クレィドゥ~」以前のクサナギの記憶があります。これでは「記憶移殖」はない、という森さんの言葉に反してしまいます。キルドレには、他人の話と自分の記憶を混濁させてしまうという症状がありますが、選択的にクサナギの記憶を混濁させるというのは、都合が良すぎるように思います。
しかしクサナギが偽クサナギではなく、カンナミは「クレィドゥ」のエピローグから続いてクサナギが持つ別人格だとすると、「スカイ・クロラ」ではクサナギもカンナミもクサナギ、一人二役ということになってしまい、2人がササクラやトキノや他の人の前で会話していることの説明ができません。(レストランの店員などを含めて、その他全員が2人いるふりをしているのでなければ)
また、性別の問題も出てきます。 トキノと同室であることや、トキノが娼館へ案内したこと(65)や、そこの女に「よろしくね、ボーイ」と言われたこと(68)、シャワーから上半身裸で部屋に戻っていること(143)。カンナミが男性であること示唆する記述はまだ他にもあります。すると、女性のクサナギの別人格という考えと相入れません。
このような矛盾が問題となるわけですが、実は、偽クサナギの問題と性別の問題は、それぞれに説明をつける方法がないわけではありません。記憶移殖などしなくても記憶を学習することは可能だし、性転換手術を受けたという説明も可能です。しかし最大の矛盾である時間の整合性の問題は残ります。そして、時間の整合性の問題を含めて、全てを説明する仮説が少なくとも1つあります。
それは、「「スカイ・クロラ」はクサナギの別人格であるカンナミの頭の中の出来事、つまり妄想なのだ」という仮説です。妄想の中の話なので、時間が合わなくても、一人二役でも、上半身裸でウロウロしたってどうということもありません。クサナギの記憶を持っていることも説明ができますし、別人格のカンナミが別の記憶を持っていることも不思議ではありません。色々と悩んだ末に「夢オチ」みたいな話で恐縮ですが、それを裏付ける要素がいくつかあります。
その1つは、森さんがこのシリーズのもとにしたという、デヴィッド・リンチ監督の映画「ロスト・ハイウェイ」です。前回、「途中で主人公が入れ替り、片方はもう片方が作り出した別人格」ということを書きました。さらに言うと、この映画は最初から最後まで全編が、刑務所の中にいる主人公の妄想という解釈ができるのです。
もちろん、「スカイ・クロラ」シリーズよりも難解とも言えるリンチ監督の映画ですから、この解釈が正しいとは言い切れませんが、「解釈ができる」というより、私が観た限りでは「他の解釈では説明できません」でした。(「スカイ・クロラ」の謎解きのために、リンチ作品の謎にまでブチ当たってしまって、本当に消耗しました。)
2つ目は、「スカイ・アッシュ」でクサナギが見た夢(イクリプス230)です。この夢でクサナギは自分が撃った人々を思い出しますが、その最後の1人のところで「あれは、僕だ」と「スカイ・クロラ」のカンナミがクサナギを撃つ場面を思い出します。「あれは、僕だ」ですから、本人による告白とも言えます。
それから、これは直接的な裏付け要素とはなりませんが、多重人格の中のある人格が「死ぬ」「殺される」という考えは、多重人格者を扱ったノンフィクション「24人のビリー・ミリガン」「ビリー・ミリガンと23の棺」の中にも見られます。「~棺」の方はタイトルからして分裂した人格の「死」を暗示しています。
3つ目は、エピローグです。それまでとは違って一歩退いた視点で自分のこと、クサナギとのことを振り返っています。一歩退いた視点なので、最初の「夢の中で、僕はただ戦った。」という言葉の「夢」とは、「今見ている夢」という意味ではなく、それまでの話、つまり「スカイ・クロラ」全編のことを指して「夢」と言っているのではないでしょうか。
冒頭に書いたように、「スカイ・クロラ」1冊の中にもヒントが込められているとすると、最後のシーンに分かりやすいヒントを持ってくるのは極めて自然です。「夢オチ」の物語で最後にガバッとベッドから起き上がるシーンのようなもの、だと考えることができます。ちなみに「ロスト・ハイウェイ」の最後のシーンも、主人公の別人格への変身を暗示する、一種のタネ明かしでした。
このように「ロスト・ハイウェイ」をもとにした、ということを素直に受け取れば、「スカイ・クロラ」全編が妄想で、先立つ4冊はそこに至る物語と捉えて問題ないと思います。以上、Q.E.D. (ふぅ~、疲れた)
—–追記—–
この考察に至る前に、同じように「スカイ・クロラ」シリーズの謎を追われた多くの方のブログを拝見しました。その時感じたのは、同じ目的に向かっているのだから協力できないものか、ということでした。メールやコメントで?とも考えましたが、読む時期も違うのでリアルタイムに協力するのは難しそうでした。
そこで、私が考察に使ったメモを提供することにしました。そうすれば、次の人は私の作業の続きから始められます。幸い、アウトラインプロセッサーソフトを使っていましたので、テキストファイルに出力できました。今後、「スカイ・クロラ」シリーズの謎に挑もうとされる方がいらっしゃったら、遠慮なくダウンロードして使ってください。
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(2010.7.28 追記)
sugiさんから、コメント欄にご指摘をいただき、新たな考察を加えたのでここに追記します。
「スカイ・クロラが抱える矛盾」に挙げた「性別の問題」が、「クレイドゥ~」のエピローグにもあることが分かりました。エピローグ2ページ目で、ベッドの上段で寝ている奴のことを「彼」と表現していることから、主人公が男性と同室であることが推察されます。
これは「クレイドゥ~」エピローグのカンナミが、女性のクサナギの別人格だとする考えと相入れません。それ以前の物語の考察(「妊娠して非キルドレ化した」など)から、この主人公が男性の誰かであるという考えも排除すると、残る有力な可能性は、「「クレイドゥ~」エピローグから既に、クサナギ=カンナミの妄想」というものです。
「都合の悪いものは全部「妄想」かよ、ずいぶん都合のいい考察だな」という声が聞こえてきそうで怖いですが、それは上に書いた「それを裏付ける要素」の3つと、ここに至る長い道のりに免じてご勘弁いただきたいと思います。
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