ささらさや

書影

著 者:加納朋子
出版社:幻冬舎
出版日:2001年10月10日第1刷
評 価:☆☆☆☆(説明)

 深夜のテレビドラマでやっていた「てるてるあした」の原作。ドラマは、同じ「佐々良」という町を舞台にした本書と「てるてるあした」の2つの小説を合わせて原作として、脚本を書いたらしい。ドラマでは木村多江が演じた準主役のサヤさんが、本書では主人公。

 サヤは突然の交通事故で夫を亡くした。生後2ヶ月の赤ちゃんのユウ坊を残して。サヤは全く頼りないというか、人が良すぎて簡単に人に騙されてしまう。
 しかし、死んだダンナが誰か他の人に乗り移って助けてくれる。でも、乗り移ることができるのは、幽霊のダンナを見ることができる人だけ、それも1回限りだ。

 とにかくサヤが頼りない。見ていて(読んでいて?)心配だ。死んだダンナでなくても十分に心配。赤ちゃんのユウ坊を育てるのも育児書のままだし、不動産屋に家賃を騙し取られても、「あの家も赤ちゃんが生まれて何かと大変だから」と、許してしまう始末。
 3人のバァさんたちと、エリカという友人と、幽霊のダンナに守られて、何とか危機を克服する。いつかは、自分で生きていけるのだろうか?
 少し幻想的なお話で、ちょっとホロッとさせられたい人に特におすすめ。

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崖の国物語3 神聖都市の夜明け

書影

著 者:ポールスチュワート 訳:唐沢則幸
出版社:ポプラ社
出版日:2002年3月第1刷
評 価:☆☆☆☆(説明)

 1巻、2巻、3巻と巻を追うごとに、話のテンポも良くなり面白みも増してきた。残酷なシーンもなくはないが、2巻ほどたくさんは死なないから読みやすい。
 これを言っては元も子もないのだけれど、都合が良すぎるところが少しある。誰一人行ったことのない(神話だと思われていた)「大河の源」に、徒歩で到達してしまって良いのか?飛空船を操れる人々なのだから、歩いていけるところなら、誰か1人ぐらい行った人がいてもおかしくないだろう。また、帰りはそこからロケットのようにあっという間に帰ってきても良いのか?そんな気持ちが読後にふとしたけれど、話の持って行き方がうまいのだろう、読んでいるときはそんなに気にならなかった。

 前号の最後で、父である「空のオオカミ」の危機を知ったトウィッグは、新しい乗組員と共に、大渦巻きの中へ救出に向かう。そこで、崖の国全体の危機を知らされるが、大爆発を起こして乗組員全員がバラバラに吹き飛ばされてしまう。トウィッグは、乗組員を捜し出すことと、崖の国の危機を救う2つの使命を負って、新しい冒険へ出る、というのが今回のあらすじ。

 トウィッグの話は、これにて完結。しかし、崖の国物語は、主人公を変えて続く。闇博士がなんともあわれだ。

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反社会学の不埒な研究報告

書影

著 者:パオロ・マッツァリーノ
出版社:二見書房
出版日:2005年11月25日初版
評 価:☆☆☆(説明)

 同じ著者による「反社会学講座」の続編。どうして出版社が変わったのだろう?
 今回は、前著のような「社会学のいい加減さを斬る」というような趣は影を潜め、世の中の気になったことを1つづつ取り上げて料理してみようといった感じ。
 ネタは広範囲に及ぶし、「おもしろければなんでもアリ」と、著者も言っている通り、面白みというか雑学的な楽しみはあるしで、前著より楽しめる。
 しかし、どこかで披露して「へぇ~」と言われる以上には得るものはあまりない。

 冒頭の「統計奇譚」では、社会問題として語られる論説の多くは、個人的かつ感情的な意見で、それを客観的かつ科学的な学説に格上げするために、世論調査や意識調査をする、と言っている。
 そして、その調査の例で、3,4日前の選挙選挙に「投票した」と答えた、250人中41人が実際には投票していなかった、というものを紹介していた。どうしてウソをつくのか?と思うが、15%もの人がウソの答えをするかもしれないのでは、調査もそれから導かれる結果も信用ならない。確かなものなどないのだ。

 「武士道」に関するくだりでは、著者の新渡戸稲造は、外国向けに紹介するために書いたもので、武士道を日本に再興しようなんて意図はなかったのだとか。本人は、武士道やそれを振りかざすうすっぺらな言説に対する鋭い批判的な主張も多くしていて、今の愛国心を巡る現状も、もし生きていればきっと苦々しく思っているだろうと、著者は言う。
 「武士道とは死ぬことと見つけたり」と言う「葉隠」にしても、そう言う傍らに「無理してイヤなことはせず、好きなことをやって暮せ」とも書いているんだって。

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反社会学講座

書影

著 者:パオロ・マッツァリーノ
出版社:イースト・プレス
出版日:2004年6月23日第1刷 2004年10月5日第6刷
評 価:☆☆☆(説明)

 著者の素性は不明。恐らくはどこかの大学の社会学の先生なのだろう。何しろ、膨大な資料を読み込んでいる。これだけの資料・文献にアクセスでき、情報を整理して結論を導き出すのは、誰にでもできることではない。社会学の専門家に違いない。
 このような作業を経て、著者が全20回の講座で明らかにしたことは全て、世の中で社会学、統計によって語られている言説への反証だ。

 世の中で心配されている少年犯罪の増加も、フリーター・ニート問題も、少子化もすべて社会学によるトリックで、スーペーさん(超悲観主義者:スーパーペシミストと著者は呼んでいる)と、問題がないと困る官僚などによるでっち上げだと言い切る。
 社会学の手は、世の中の出来事に対して、「ある仮説を立てる→調査によって証明する」という方法であり、実験による証明は難しい。そうである以上、仮説を証明するための都合のよい調査結果だけを取り上げてしまう過ちから無縁ではいられない。意図的に行えば、どんなでっち上げの結論も導き出せる。
 このような手法で、いろいろな言説の裏付けがなされていると、著者は主張している。しかし、著者の反証の方法も、同じ手法から一歩も出ていないのだが、これも仕方ないことか?

 そんな中で、冒頭の少年犯罪の増加についての記述は秀逸だと思う。平成元年からの少年凶悪犯罪のグラフを見ると2倍の増加、ということになる。しかし、その左、つまり過去をグラフに付け足すと、昭和35年ごろに今の3倍以上を記録していて、以降全般的には下降傾向にありることが分かる。少年犯罪の増加を主張する人々やメディアは、グラフの右端部分を拡大することで、未曽有の事態が起きていることを演出したのだ。

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崖の国物語2 嵐を追う者たち

書影

著 者:ポールスチュワート 訳:唐沢則幸
出版社:ポプラ社
出版日:2001年10月第1刷
評 価:☆☆☆☆(説明)

 前号を読んだ時の感想「今後に期待したい」に、応えてくれる内容だった。
 話の設定や目標が明確だし、適度なサプライズもある。そして何よりテンポがいい。前号の単調な繰り返しと比べたら、続きとは思えないほどだ。
 「地上町」「神聖都市」「薄明の森」「泥地」と、舞台が代わって行き、それぞれの場所の性格もユニークだからテンポ良く感じるのだろう。さらに、前号では人格がしっかりと描写されているのは主人公のトウィッグだけで、その他にでてくるのは、ただの怪獣に過ぎなかった。しかし、本書では船長に乗組員、光と闇の博士、悪役のヴィルニクス等々、登場人物が多彩だ。ファンタジーはこうでなくては。

 非科学的であっても設定は面白い。
 浮力を持つ石である「浮遊石」、この世界では、この浮遊石を使って船を空に飛ばしている。また、空中都市サンクタフラクスは巨大な浮遊石の上に建設されている。そして、浮遊石の浮力とのバランスをとるための石「嵐晶石」、嵐晶石は暗いところではとてつもない重さになる、同時に汚染された水を浄化する作用もある。

 ストーリーは、サンクラフラスクを地上につなぎとめておくための鎖の製造によって、水の汚染が進み、汚染された水の浄化のために嵐晶石が使われてしまい、さらにたくさんの鎖が必要になる、という完全な悪循環からスタートする。
 この悪循環を断ち切るためには新たな嵐晶石が必要、というわけで、それを求める冒険が本書の内容だ。

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号泣する準備はできていた

書影

著 者:江國香織
出版社:新潮社
出版日:2003年11月20日発行 2003年12月25日3刷
評 価:☆☆☆(説明)

 第130回直木賞受賞作品。久しぶりの純文学ということもあり、期待が大きかった。そのためか肩透かしをくらった感じだ。男女(とは限らないのだが)2人の関係が音も無く静かに崩れていく様子を、静かな語り口で綴った、というところが評価されて受賞に至ったのだろうと思う。確かに、そういった静かな悲しみが伝わってきた。

 短篇集なので、読むのに苦労はいらない。さすがに読みやすい。しかし、あまりにも平凡過ぎないだろうか?話によって設定はいろいろ、レズのカップルもあれば、嫁姑の旅行もある。表題の「号泣~」では、イギリスのノーフォークという街で知り合った放浪癖のある男女の話。のーふぉーくという街に何か意味があるのかどうかは分からない。木がない電飾だけのツリーというのがとても悲しいのらしいのだけど、これも意味は分からない。
 分からないのにいろいろ言ってはいけないのだけれど、分かる部分だけで感想を言うと、「それで….。何か?」だ。

 とてもしっくり行っていて、何の不安もなかった男が浮気した。もちろん浮気はいけないし、ショックなことだと思うけれども、それで泣きたくても泣けなかった、なんて話にみんなが感動したり同情したりする世の中でもないように思うが、どうだろう。
 これが等身大の人々の心の描写なのかもしれない。だから深く感情移入できる人もいるのだろう。しかし、私は小説には、現実とは別のものを求めているらしい。

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希望の国のエクソダス

書影

著 者:村上龍
出版社:文藝春秋
出版日:2000年7月20日第1刷 2000年8月5日第2刷
評 価:☆☆☆☆(説明)

 エクソダスとは脱出の意、旧約聖書にある「出エジプト記」に原意がある。
 本書は、2000年に、2001年からのほぼ10年間の日本を舞台にした、極近未来小説。読んでいる今は2006年だから、小説の真っ只中というわけで、意地悪な見方とすれば、どれだけ当たっているか、という見方もできる。もちろん、著者は予言書を書いたわけではないので、そんな読み方は正しくないのだけれど。

 小説では、中学生の過半数が不登校になっている。彼らは現在の教育への積極的なNOを意思表示するために、学校へ行かないでいる。その中の一部は、緩やかなネットワークで結ばれて組織化され、映像配信や職業訓練などの事業を手がけ、為替を操って巨額の資金を手にし、北海道に十万人単位で移住して新たな街を建設してしまう。
 当たりはずれで言えば、はずれだろう。中学校へは大半の生徒が未だ通っているし、大人社会はその面目をなんとか保っている。しかし、薄い膜1枚を隔てた事実のような気もする。
 文科省の調査では、平成15年度の中学校の不登校は10万2千人、2.73%だ。実際にはもっと多くいることが想像されるが、この数値でも40人学級を前提にすれば、1クラスに1人以上だ。全部のクラスで不登校生徒がいると思えば、異常事態にはちがいない。
 現在の不登校は、言わば消極的不登校。「本来は行くべき」という考え方までは揺らいでいない。これが小説のような積極的不登校という考え方に変わらないとも限らない。

 「この国には何でもある。だが希望だけがない」と、中学生のリーダーに著者は言わせた。この言葉は有名になった。コピーとして良くできているから。しかし、その前の言葉のやり取りの方が興味深い。国会での議員との対話だ。
 中学生:「どうして中学校というものが、この国に存在するのか」
 議  員:「法律で決められていて、誰でも行かなくてはならないから」

 この後、中学生は対話を拒否してしまう。答えになっていないからだ。言葉で議論をするのが仕事の国会議員の面目丸つぶれだが、同情もする。中学生までは学校に通う、という自明と思われていたことにも、理由が必要になっているのだから。自明なことに対する理由は説明が難しいだろう。

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ローマ人の物語14 キリストの勝利

書影

著 者:塩野七生
出版社:新潮社
出版日:2005年12月30日発行
評 価:☆☆☆☆(説明)

 キリスト教徒から「大帝」と呼ばれるコンスタンティヌスの死の年の337年から397年のテオドシウス帝の死までの60年間のローマの歴史。
 15巻の予定のシリーズだから残すはあと1巻。この巻の最後でローマ帝国は東西に分裂する。そして一方の西ローマ帝国が滅亡する476年まであと80年。ボロボロと崩れ落ちる音が聞こえてきそうな中身の濃い1巻だ。

 著者によれば、ローマ帝国は崩壊ではなく溶解する。少なくとも宗教的には多神教を国の宗教としていたローマ人が、キリスト教徒になってしまう。対決して負けたわけではなく、変質してしまった。このことが、サブタイトルの「キリストの勝利」につながっている。

 この巻では、皇位継承の安定から考え出された世襲制がほころびる。コンスタンティヌスの死後、葬儀の直後に親族の4人が殺され、息子3人による分割統治が行われる。しかし、それも1人死に、2人死にして、副帝になったいとこまでも処刑されるというありさま。同じぐらいの力と正統性を持った複数の者が並び立つことはでいないのだろう。血のつながりが不幸を招く。

 この巻の主役はユリアヌスだろう。生き様が劇的だ。コンスタンティヌスの死後の大粛清時には6才だった皇帝の甥は、父を殺され兄とともに幽閉される。18年後に学究生活から呼び戻され、副帝、正帝となっていく。しかもこの時代、キリスト教へとひた走るローマ帝国の流れを、ただ一人押し留めようとした皇帝だ。彼を主人公とした物語がいくつかあるそうだが、いつか読んでみたいと思った。

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脳内汚染

書影

著 者:岡田尊司
出版社:文藝春秋
出版日:2005年12月15日第1刷 2006年2月1日第3刷
評 価:☆☆(説明)

 またもやヒステリックなゲーム・ネット排撃論が出版されてしまった。
 冒頭に国内外の少年少女による悲惨な事件を持ってきて不安をあおった他は、前半は抑え気味で、「こうした傾向を持つ子が、メディアに引き寄せられやすいのではないか」という疑問も生じる、などと反論ににも配慮を見せた書き方をしている。
 しかし、後半になると徐々にテンションが上がり、遂には少年犯罪はもちろん、不登校、引きこもり、家庭内暴力、ニート、学級崩壊、ADHD、DV、虐待、性犯罪、自殺と、およそ考えられる全ての現代の不都合な部分を、メディアのせいにしてしまう。
 そして、メディアに対して厳しい目を向けなければ、「将来あなたの子どもを殺人者にしたり、自殺させることになるかもしれない」と結んでいる。これでは脅しだ。子どもを人質に取った悪質な脅しだ。
 メディアリテラシーの必要性について、僅か4ページではあるが触れてはいる。しかし、こんな脅し文句を投げつけられては、メディアリテラシーのことなど、読者の心には残らないだろう。現に作家の柳田邦男氏は、雑誌の記事の中で「学校からパソコンをなくせ」と主張している。メディアを取り上げてしまったら、メディアリテラシーを身につけることなどできるはずもないのに。

 本書の中で多用されているのが、「寝屋川調査」といわれる調査で、中学生とその親4,000人へのアンケート調査だ。「ゲームを1日4時間以上する子は、それほどしない子と比べて○○と答える割合が△倍多かった」というもの。調査結果を使うなら、△倍という表現ではなく、結果の数値そのものを示すべきだと思う。また、多くのグラフは0を原点としないグラフだ。こうすれば、僅かな差でも強調される。作為的にやっているとしたら、これもいただけない。

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完訳 封神演義 (上)(中)(下)

書影
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著 者:許仲琳 編
出版社:光栄
評 価:☆☆☆(説明)

 封神演義というのは、中国の古典ファンタジーで、明代に作られた史書に登場する歴史上の人物や、道教や仏教の仙人、神話の中の神々などが入り乱れて登場する。水滸伝などに続く奇書であり、大衆の娯楽小説と言える。

 ストーリーの中心は、中国古代の王朝、商の最後の王、紂の暴虐ぶりと、それに対抗する周の隆盛を描いている。上中下3巻のからなり、1冊目の上巻では、とにかく紂のやることが並外れてひどい。妲己という狐の精が化けた妖妃にたぶらかされてやっているのだけれど、酒池肉林と言われるように、政務を放り出して遊び呆けるのはともかく、それを諌める忠臣を次々と処刑する。焼けた銅柱に縛り付けて焼き殺す、ヘビやサソリを充満させた穴に裸で突き落とすといった残酷な処刑をだ。
 この辺りのことは、史記という晋代の公式記録にもあることらしいが、これに対抗する勢力があり神々などが加わることで、娯楽作品になったのだろう。日本で言うと日本書紀などを基に、古代日本を舞台にしたファンタジーを作ったという感じだろうか。

 中巻では、紂に対抗する周の都、西岐を商の軍隊が次々と攻め、それを周の軍隊が撃退する。下巻では、周の軍が商の都、朝歌に向かって進軍し、5つある関所を破って都を陥落する。紂王は、最後に勇猛ぶりを発揮し、自分の非を悟って自死する。暴君に対しても一部の情けというところか。上中下で100のエピソードに分かれている。100回シリーズのテレビドラマ、大河ドラマを2年かけてやると思えばいいかもしれない。

 難点は繰り返しがとても多いことだ。中巻の西岐の攻防戦も、下巻の関所での戦いも、最初は商軍の道士が出てきて周軍が苦戦する。しかし、天の意を受けた仙人に助けられて周軍が勝利、めでたしめでたし、商の将軍は死ぬか帰順する。延々とこれの繰り返し。これを耐えられないと思うと読み通せないだろう。

 中国史には少し興味があって、いくつかの小説を読んだ。それで分かったことだが、中国の歴史は王朝の移り変わりによって成り立っている。悪政を行った王朝が天命により良い王朝に取って代わられる。これの繰り返し。
 しかし、歴史というのは勝ち残った者が都合の良いように書き換える、といった側面もある。だから、王朝末期には必ず国が乱れるといった歴史が残っているのかもしれない。

 ところで、妲己という妖妃は極めつけの悪女なのだが、元々は女媧という古の神が、紂王の無礼に怒り、商を滅ぼすために差し向けたものだ。目的は達したようだが、これではあまりにやり方がまずくはないか?どんなに多くの無関係の者が苦しめられたと思っているのか?しかも、妖妃に乗り移っていた狐の精は、女媧に捕らえられて処刑されてしまう。すっきりしないが、良いのだろうか?

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