3月31日の記事「新聞社の紙面モニターになりました」で、お伝えした某新聞社の紙面モニターの期間が終わりました。4月2日から始まってほぼ2週間に1回、1週間分の記事についてのアンケートに、全部で11回答えました。
思っていたより大変でした。毎回締切前の日曜日に1週間分の新聞を並べて、片っ端から読み直していました。毎日その日の分をチェックしておけば良いように思いますが、それはできそうでできませんでした。リビングに1週間分の新聞が積み上がったあげく、日曜日には広げられて散らかる、という繰り返しで、妻と2人の娘には迷惑だったと思います。
いつもよりじっくりと批判的に新聞を読んで感じたことは、「新聞には「真実」は書かれていないのだな」ということでした。「新聞に書いてあることなんてウソばっかりだ」と言いたいのではありません。「真実とは何か」という命題に深入りするつもりもありません。新聞に書いてあることが「真実(本当のこと)かどうか分からない」ということなんです。
新聞をよく読むと「○○が□□と言った」という記事が多いことに気付きました。そのようには書いていなくても、基本的に新聞は、記者が誰かに取材をして、つまり聞いたことを基にして記事を書きます。ですから新聞は伝聞の巨大な集積、ほとんどの記事は「誰かから聞いてきた」ことなのです。そしてその「誰か」が「真実」を言っている保証はどこにもないのです。
実際に真実ではなかったことも少なくありませんでした。1週間分の記事を通して読むことで、前の情報を否定する記事を何度か見つけました。前の情報は、真実ではない「誤った情報」だったわけですが、そのことに触れることもありません。伝えられたものが「誤った情報」であっても、「○○が□□と言った」ことは事実ですから「誤報」ではないのでしょう。しかし、この理屈が通るなら、伝聞の巨大な集積たる新聞なんて信用できなくなります。
さらに取材源の「誰か」が、何らかの意図、あるいは悪意を持っていると感じられる場合もありました。発言の一部だけを報じることで、意味合いが全く違ったものになっていた記事もありました。最近、失言が原因で辞任する閣僚が後を絶ちませんが、その理由の一端にはこうした報道姿勢も関係していると思います。
ここまでは否定的なことばかりになりましたが、全体としては、そう否定的な印象を持ったわけではありません。上に書いた「前の情報を否定する記事」も、実は「真実」に近づこうと取材を続けた現れでもあるのです。1週間分の記事を通して読むと、徐々に物事の核心に近づいていることが分かる、記者の努力が感じられることがありました。
「真実かどうか分からない」としても、情報源としての新聞の重要さを再認識した紙面モニター体験でした。